2011-02-27

THE PRODIGAL SONS at La.mama on 26th Feb



来年度の身の処し方が定まらず、心身ともに不安定になりすぎているなか、
チケットを買っていた、というただそれだけの理由でかろうじて動くことができた。

26日土曜は、様々なライヴが各地で開催されていて、とくに国内メタル系は活況を呈していた。
吉祥寺ではANCIENT MYTH/SoundWitch、渋谷サイクロンではVOLCANO、
鴬谷ではDRAGON GUARDIAN/LIGHT BRINGER/MinstreliXの「暗黒舞踏会」、という風に。


どれも観たかったのだけど、チケット発売前からTHE PRODIGAL SONS(以下プロディ)に決めていた。

市川"JAMES"洋二(b), 五十嵐"Jimmy"正彦(g), 森重樹一(vo), 松尾宗仁(g), 大島治彦(dr)


ZIGGYの森重・松尾コンビが、アンプラグド調のユニットとしてプロディを始めたのは5年前になる。
1st EPのいびつな宝石(2006)を出しライヴを始めたころは、本人たちも手探りだったらしい。

2009年に新たなメンバーを加え、バンド形態となってからは方向性が固まってきた。
雑な言い方で申し訳ないが、「ストーンズ型のロックンロール・バンド」がその方向性だ。

といっても、「ストーンズ型」なる言葉が含む因数といったら、とてもわたしの手に負えない多さだ。
ロックンロール、リズム&ブルーズ、スワンプ、フォーク、カントリー、ソウル、ファンク、レゲエ…。
また、ここに各メンバーのヴィンテージ機材へのこだわりが加わるのだから、すべてを理解するのはムリ。

その心地よい音楽に耳を傾け、体を揺らすよりほかにできることはない。
バンドがファンに期待するのも、そういったことだろう。

どこまで音を「引き算」できるか、いかに簡潔で「間」のある音楽をプレイするか。
それこそがロックンロールの神髄であり、その始原に還ること、ルーツを追及することが肝要。

すべてがシンプルだった時代に戻りつつ、それを日本人である自分たちが現在においてプレイするということ。
そういったことが「第二期プロディ」というバンドのコンセプトであり、それゆえに、森重は脱退を表明した

そんな状況のなかでの、新作のリリースと短いツアーだった。
いささか複雑な心境で会場に足を運んだかたも多かったのではなかろうか。


わたしはといえば、ただでさえ重い心境だったので危うく行かないところだった。
(前日に花粉の急襲をうけて両目とも結膜炎で死にかけていたというのもあるが)

ロックンロールのような「心地よい」音楽は、精神的に安定していないと聴けないし、楽しめない。
それでも会場へ向かったのは、ひとえに「仁義」みたいなもんである。(もちろん、眼科に寄ってから)


では、以下に昨日のラママ公演のライヴレポをお届けする。
(千秋楽の今日は混雑を予想して選ばなかったのだった)


* * * * * * * * * * * * * * *


開場時間に20分以上遅れて18:50過ぎにようやくラママに着くと、まだ入場の列がつづいていた。


看板には金曜とあるけど、土曜。


ラママは初めての会場だったけど、まさかあんなに観にくい構造になっているとは思わなかった。
「柱が邪魔」といえばクアトロの代名詞・別称・象徴だが、ラママはクアトロの比ではないのだ。

よってポジショニングに難航したけど、上手側上段に落ち着く。

そして思わずにいられなかった、彼らでさえもこんな小さい小屋でやらざるを得ないのか、と…。
音楽ビジネスが歪んでいるのはむかしからのこととはいえ、根本的な間違いを感じずにいられない。


そんなことを考えていたら、定刻を10分ほどおしただけでメンバーが登場。

フロントの四人はみなグラサン(サングラス、とは言いたくない)をかけているのが愛嬌あっていい。
でも、長年「音楽」という世界で生きていたひとたちだけあって、一般人とは隔絶した雰囲気が漂っている。

松尾にいたっては、知らない人が見たら「その筋の」ひとにしか見えないのではないだろうか、
というほどの圧倒的な存在感である。タトゥーだらけの森重を筆頭に、みな「そんな」感じだが。


新作のタイトルトラック"青い鳥"から、ライヴは始まった。

のっけからウソのようにいい音で、テレキャス独特のライトでクリアな音が最高である。
松尾のテレキャスは、指板が黒ずんでいるほどのヴィンテージもの。50年代ものだろうか。

詳しいことはまったくわからないが、楽器はだいたい以下の通り。
松尾は基本的にテレキャス(2本…3本?)、JimmyはSGやレスポールやストラト、
JAMESことアニキは、黒いヤツ(シーン?)と白いヤツ(プレシジョン?)。

素晴らしい音と素晴らしい歌唱に、ここ最近で蓄積された鬱憤が早くもどこかに消えていた。

森重は機嫌がいいときにいつも見せる、大きな口を横に開いてニッと笑う、
例のこどものような笑顔を見せていた。脱退するなんて考えられない、というほどの。


南部ブルーズ的なルーズさとタイトなリズムが織りなす"真っ白な闇の中、壊れかけちゃいないかい"では、
オーディエンスからも大きな歌声があがる。こうゆうシャッフル/ブギー調の曲がわたしは大好きである。

新作からは、さらにブルーズの深いところに行きついた感のある"救いの手"と、
一転してストーンズ型ロックンロールの"くたばっちまうには…"がつづいた。

ブルーズといってもあくまでも「ロックンロール・バンドが解釈する」ブルーズなので、
ギターのニュアンスに富んだクリアなカッティングが曲をタイトにひき締めているのでダレないし、
国内最高峰と言えるリズム隊にかかっては、その基盤は盤石どころではないのである。
まして、ストーンズ型ロックンロールをやらせたら何をかいわんや、であろう。


松尾が"ハレルヤ"のリフを弾きだすと、驚いた顔を見せると同時に笑いだす他の四人。
予定外だったのか何なのか、とにかく松尾以外は笑いながら「付きあう」といった感じ。

"Wandering Lush"が図太くも快適な「暑苦しくない」グルーヴで場内を沸かしたあと、
「曲順、変わっちまったな」と言う松尾。やっぱりそうゆうことだったか、と笑い声が起こる。


自らの脱退についてはまだ触れずに短いMCにまとめた森重が、
「こうゆうことをしている(日本の)バンドも、少ない」と言って次の曲を紹介。


新作からの"新しい風が"は、ロックンロールの「伝統」のひとつであるレゲエの曲だ。
余程のレベルにあるリズム隊でなければモノにできない曲ではないだろうか。

表面的な心地よさのウラに潜む彼らの職人技は、国内最高峰どころか世界レベルだろう。
日本の音楽業界に、「世界に出る」という意識さえあったら、と思わずにいられない。

彼らは商業的なことだけを考えるのだろうが、いちばん大切なのは国外のファンを納得させること、
つまりは音楽的な評価と、なにより「コイツら最高!」という「信頼」を得ることが重要なはず。
国内の流通・成功ばかりに汲々としていないで、もっと広い視野でバンドを育ててほしいものだが…。


カントリー調の"サンシャイン浴びながら"に和み、
「少し、アコースティックの曲を何曲か、聴いてもらいます」との言葉を挟んで、
松尾の奏でるゼマイティスのアコギ(ハート型のホール!)が美しい"綺麗事で飾り立てた自我を脱ぎ捨てたい"へ。

どこかクラシカルな響きのある曲で、そこが「ストーンズ型」というか、ブリティッシュではある。
いや、アイリッシュな郷愁もあるだろうか。だとしたら、やはりアメリカンでもあるのだ、きっと。

60年代の英国人がやろうとした古い米国人の音楽を、21世紀の日本人がプレイする、というのは倒錯ではない。
音楽など、それが好きでありさえするのなら、いつのものをどこの人間がやってもいいに決まっている。
アタマに、ココロに、生き方に、妙な「壁」が多すぎるのだ、作り手も聴き手もその間の手合いも。
それが日本だ、日本人だ、と言うことは可能だが、こと音楽に関しては徹底してユニバーサルでいたいと思った。
くだらないことに拘泥して、その音楽が持っているポテンシャルを味わい切れないひとがあまりにも多い。


異色作と言える"朝の光の中で"は、「十字架に架けられた神の子」へ語りかける内容の歌詞にドキっとさせられる。
しかし、それが音楽である限り、何をやってもいいのである。(素晴らしい曲であるのなら、という条件付きだが)


少々、シリアスな空気に包まれた会場を、
"傘がないのなら濡れて歩けばいい"のあたたかさが柔らかくほぐしてくれた。
オーディエンスも、実に楽しそうに歌っている。これが、もっと多くのひとに届いていたら…。


アコースティックのセットが終わって間が空き、マイクスタンドにもたれかかるような姿勢をとる森重に、
オーディエンスも「いよいよか」という緊張を感じとって静まった。

森重が長いMCを始めた。プロディを始めたころのこと、方向性の違いのこと。
「オレなんかまだアタマがチャラくて、まだモトリー・クルーとか言ってる(笑)」
「みんながルーツに戻っていくのに、オレが足を何度も引っ張ってしまって申し訳なかった」

松尾がフォローを入れる。
「オレもさ、やりたくない音楽をやるつらさって先に経験してるから、凄いわかったんだよね」
(ZIGGYを最初に脱退したときのことを言っているのだろうが、最近の状況も重ねていたのかも)
そう言うと、これは松尾の人徳というかキャラクターがなせる現象だが笑い声があがってしまい、
「オイオイ、ここ笑うとこじゃねぇぞ!(笑)」とツッコミ。森重も笑っている。

森「オレさ、バンド辞めんのって初めてなんだよ!(笑)」 そう言えば、そうだ。

松「みんなさ、いっしょに**(聞きとれず…)行こうか?」
森「オレはロサンジェルスがいいんだよね!(笑)」 ルーツ派とハードロック派の見事な対立。


円満なかたちで脱退することはこれまでのライヴの進行でよくわかってはいたものの、
新作が素晴らしい出来だけに、あまりに「惜しい」とも思ってしまう。


その新作から、ソウル的なニュアンスのある"空の見えない部屋"と、
ファンクっぽいロックンロールの"Don't Think'bout It,Just Feel It"がつづき、


足元のセットリストを「ここ暗くて見えねぇンだよね(笑)」と覗き込んだ森重が、
「非常ベル、がぁ~」と言って"非常ベルが鳴り止まない"のリフがスタート。

贅肉を削ぎ落した、体脂肪率の低いスマートでクリアなサウンドに絶妙なヴォーカルがのる。
このバンドはすぐにでもアメリカでプレイすべきだったのに…と、「もしも」がアタマを旋回する。

いま、こうしたロックンロールを聴かせることができるバンドはほとんどいない。
THE BLACK CROWESは活動休止だし、他は大ベテランばかりで、中堅も新人も弱い。
それはそうだ、「年季」が必要にして十分な条件なのだから。返す返すも、惜しい。


大好きなシャッフルの"独白(モノローグ)"で幸せな気分になり、
ちょっとZIGGYっぽくもある"Don't You Care,Don't You Mind""悪くない風に身を任せて"では、
「こんな気分にしてくれるライヴから遠ざかったら生きてる意味がなくなってしまう」と思わせられ、
(四月以降はライヴを観れなくなる可能性が大なので、それに脅えて生きる日々なのだ…)
シメは「これぞロックンロール!」の"Gotta Get Out"で大いに盛り上がって、本編は終了。


アンコールは"ウラとオモテ""罪の色を"という、プロディ独特のムーディーな曲が。
これは、森重樹一という稀代の歌い手を擁してこそ可能になる曲だろう。
「第三期」がどんなヴォーカリストを迎えるのかまったく想像がつかないが、
こういった森重独特の雰囲気を色濃く纏った曲を歌うのは、凄く難しいと思う。

とはいえ、聴いている間はただただ陶然と聴き入っていたのだったけど。
シャレたギターにクールなベースとドラム、そしてあのねっとりとした歌メロ。

素晴らしいバンド、素晴らしい曲、素晴らしいという言葉では足りないほど「素晴らしい」ライヴ。
でも、これほどまでに豊饒な音楽を受け入れる余地がこの国にはほとんどない、という現実…。


セカンド・アンコールは「この曲から、このバンドは始まったんですね」との言葉で、
1stEPタイトル曲の"いびつな宝石"が、しっとりとしたアンプラグド・スタイルでプレイされた。

そうだ、始まりは別の意味で「洗練」されていたのだった。
まったく、なんと引き出しの多いひとたちだろう…。


「オレなんかさ、ツーデイズだと明日もあるって思っちゃうんだけど、今日でオシマイってひともいるんだよね。」
「みんなホントにありがとーっ!」と大きな笑顔で、大声で言う森重に、あたたかい声援と拍手が送られる。

「それでは最後は、ドカーンといきましょう!」と、
騒がしい"Cosmic Bar Blues"が盛大に、でもビシっとラストを締めくくってくれた。



今日の最終公演はどうだっただろう。
きっと、昨日と同様の笑顔が見られたに違いない。


SETLIST
01. 青い鳥
02. 真っ白な闇の中、壊れかけちゃいないかい
03. 救いの手
04. くたばっちまうには・・・
05. ハレルヤ
06. Wandering Lush
07. 新しい風が
08. サンシャイン浴びながら
09. 綺麗事で飾り立てた自我を脱ぎ捨てたい
10. 朝の光の中で
11. 傘がないのなら濡れて歩けばいい
12. 空の見えない部屋
13. Don't Think'bout It, Just Feel It
14. 非常ベルが鳴り止まない
15. 独白(モノローグ)
16. Don't You Care, Don't You Mind
17. 悪くない風に身を任せて
18. Gotta Get Out
Encore
19. ウラとオモテ
20. 罪の色を
Encore 2
21. いびつな宝石
22. Cosmic Bar Blues


THE PRODIGAL  SONS official
http://www.the-prodigal-sons-japan.com/

森重樹一 official
http://www.morishigejuichi.com/

2011-02-19

Rouse Garden at Zher The Zoo on 12th Feb & New Mini Album

 
Rouse Garden(ラウズ・ガーデン)をご紹介しよう。


Rouse Garden 2010

高嶋優(b) 永高義従(g) はるか(vo) 仲沢拓(dr)



去年のBURRN!4月号で前田さんが「今月のオススメ」に取り上げていたので、
それとなく目にしたジャケや名前を覚えている方もいるかと思う。

「Live Diary 2010」でも書いたとおり、わたしは去年7回ほどラウズを観ている。
場所は代々木のZher the Zoo(ざーざずー)が6回、渋谷Take Off 7が1回。

夏にはベーシストとドラマーが突然脱退して驚いたが、その後すぐに適任者が加入し、
それまでのラウズ以上にいい雰囲気で活動をつづけ、先日、新作リリースのレコ発ライヴを行った。

今後の活躍を応援したいということもあって、ライヴレポと新作の紹介をしたい。



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初めて知ったのは、実は前田さんと同じ日に、同じ場所で、同じ人物から、だった。


ときは2010年2月12日金曜日、奇しくもレコ発ライヴ当日の、ちょうど1年前である。

HEAD PHONES PRESIDENTTHE AGONISTと共演した代官山ユニット公演の終演後、
会場前の坂道で寒さに震えながら、昨年末の池袋ブラックホール公演以来の再会を喜んでいた。

わたしはといえば、その池袋でやっとこさHPPメンバーやそのファンの方々とお話をすることができた、
言わば「新参者」として、はじっこにちんまりと佇んでいたのがほとんどだったはずである。
(ライヴ自体は2005年から観ているけど、「出待ち」を敢行したのは2009年10月が初めてだった)

そのなかのひとりが前田さんにラウズのCDを手渡し、翌月のB!誌「オススメ」に登場となるのだが、
そのとき「あしたラウズガーデンを観に長野へ行く」と聞いて驚いたことが聴くきっかけとなった。

当時(というほどむかしではないが、隔世の感があるのは事実)は、
ライヴのため「遠征」をする、などという発想はありえなかった。

そこまでひとを動かす力があるのなら、きっと素晴らしい音楽をしているに違いないと思った。
それに、その方とは音楽的嗜好/志向も似ていると感じていた。よって躊躇せず聴くこととなったのだった。


初めて聴いたときの感想はマイスペにあげているのだが、いま振り返ると不備が多くてリンクを貼れない。
以後のライヴ観戦、アルバムの聴き込み、メンバーとの会話などでやっと輪郭が掴めてきた気がするくらいだ。
そこで、簡単なレヴューをしてみた。アマゾンに置いといたので、そちらを参照してほしい。



1st Mini 『追憶の庭』(2007)             2nd Full 『不器用な愛』(2008)


簡単に言えば、90年代以降のオルタナ/UKロック影響下にあるサウンドに、
日本的な情緒・情念を感じさせるヴォーカルがのる、という音楽性のロックをやっている。

ラウズには、おもにポジティヴな「白ラウズ」とネガティヴな「黒ラウズ」の両輪がある。
これは、「白はるか」「黒はるか」と言い換えてもいい。バンドの核は彼女の世界観だからだ。

痛みに敏感だからこそ示すことのできる、わずかに哀しみを帯びた優しさ、温かさを湛えた、
坂本真綾を思わせる「明るい、かわいい、知的な」音像が「白」で、
(ちなみに、声も似ている。初めて聴いたとき、真っ先にその名が思い浮かんだ)

明るくなりきれない感情的なわだかまりや、仄暗い衝動をチラつかせる言葉づかいなど、
鬼束ちひろCoccoを思わせる「暗い、重い、神経症的な」音像が「黒」だ。

「白」が「読書好きな少女」で、「黒」が「恋愛依存症の少女」、というイメージがある。

いずれの場合も、その共通点は「無垢で、美しく、そして儚い」に還元されるだろう。
(もちろんその中間領域もあるのだけど、今回はこの二分法でご容赦願いたい)



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それでは、ライヴレポートからお届けする。


先週の土曜に行われたライヴは、樹海との初の共同企画「evergreen」だった。
tokageヒルノツキを迎えてのダブル・ヘッダーで、場所はもちろんZher The Zooだ。


開場時間に間に合うよう着くはずが、所用に気を取られすぎてチケットを忘れ、
うちまで取りに帰っている間にライヴは始まってしまっていた。

19:45ごろ、やっと会場に着くとヒルノツキが演奏中。
驚いてはいけないのだが、会場には多くのひとが詰めかけていて移動も難しいほど。

少々変わった構造のライヴハウスなので、奥にまで行くとスペースがあった。

ヒルノツキは最後の曲を演奏していたようだ。
アコースティカルな男女デュオで、機会があればじっくり鑑賞したいと思った。
オーディエンスからもあたたかい拍手が送られる。遅刻が悔やまれた。


もう少しステージ近くに場所を変え、初めて観る樹海の登場を待つ。
不覚にもわたしは知らなかったのだけど、アニメや映画のタイアップなどで知名度は低くないらしい。

大勢のファンが最前列に陣取っていた。奥で背伸びをしているひとも見受けられた。
集客のよさは、単に「三連休の真ん中」というだけではなかったようだと悟る。

ラウズにとってはチャンスだが、果たして彼らが残ってくれるかどうか、と余計な心配をしていると暗転、
出羽さん(g,key)と愛未(まなみ)さん(vo)が出てくる。(ベース、ドラムはサポートなので割愛)


たしか8曲40分弱、といったセットだったと思う。
90年代のJ-POP全盛時を思わせる良質な歌メロを、確かな歌唱力で歌う姿がとても印象的だった。

ラウズが対バンするバンドは歌のうまい女性ヴォーカルを擁したバンド/ユニットが多いのだけど、
樹海はそのなかでもさらにアタマひとつふたつ抜けていた。メジャーで活動できるのも頷ける。

一方で、ロックバンドとは違うものも感じていた。
ユニットだから、というわけではない、もっと根本的な「核」に関わることだと感じた。
(それと音楽的なクオリティ云々に関係はない。「違う」というだけだ。念のため。)


危惧したほどには客の数は減らなかったが、それでも2割近くは減ってしまった。残念なことである。

わたし(と、B!誌の前田さん)にラウズを教えてくれた当人が、ようやく到着。
樹海の後半4曲は観れたとのこと。ゲスト2人を待っていて遅れたのだった。


進行は20分以上押していて、新しいSEに導かれてメンバーが登場したのは21:15くらいだったか。
マイクスタンドには蝶の飾りがついていて、ライティングをうけて花のようにも見える。


つばのないミリタリー調?の帽子を被ったはるかさんが出てきて、"新世界"でライヴは始まった。
1stミニの"daisy"の系統にある、明るいアップテンポの「白ラウズ」な新曲である。

ギターソロの間に帽子を振り払うように落として、帽子は以後その場に鎮座していた。

この曲を初めて観たのはいつだっただろう。メモを見ても当時はタイトル不明で、判然としない。
それでも、12月10日(金)のTake Off 7でやっていたことは確かだ。
単なる新曲ではなく、「新しいラウズ」の曲だと、そのとき思った。

夏のリズム隊脱退には心底驚いたものだった。バンド解体の可能性すらあった。
その難局を乗り切り新たなメンバーを迎えたラウズは、以前よりも「楽しそう」に見えることが多い。
そうした人間関係がいいかたちで曲に反映されたことを感じ、「新しいラウズ」と思ったのだった。


その「新しいラウズ」の"スロウスリープ"はしかし、白とも黒ともつかない淡さが魅力の新曲だ。
傷めた翼をそっと広げていくような、優しくも痛みの伴ったサビのメロディ展開がじつに素晴らしい。

これは11月18日(木)のZher the Zooがたぶん初演で、そのときから個人的にフェイヴァリットである。
この日も、サビで鳥肌が立った。感情表現豊かな歌唱、バンドの音楽への集中力も、一線を画す。


軽快でポップな"Honey"が久々にプレイされる。

のっけから楽しそうな高嶋さん(b)と拓さん(dr)だったが、その演奏の安定感に改めて感心する。
本当にいい人選だったと思う。「核」たるはるかさんのよき理解者、というのは難題だったはずだ。
前任者が悪かったわけではないが、彼らはラウズを「新しいラウズ」にするだけのものを持っていたのだ。


「100年前はみんなここにはいなくて、それで100年後はみんなここには絶対いないわけで。」
「でもいまは、みんなここにいて。」

というMCを挟んで、新曲の"呼吸"に。

これも11月が初演だったと思う。無垢な問いと現実的な認識が交差する「白ラウズ」だ。
「ひとの生き死に」を優しく明るく歌うため、かえって涙腺にくる曲となっている。


つぎは長いMCとなった。話は、電車内ではるかさんが見た光景に始まる。

「優先席のところでケータイをしているお兄さんがいて、こどもがお母さんに質問してるの。」
「《ねえ、どうしてケータイしていいの?》って。お母さんは、でも注意まではできなくて。」
「《いいの、放っときなさい》みたいな誤魔化しかたしてて、まあしょうがないかな、って。」
「ウソついたほうが、ラクってゆうか、丸くコトが収まることもあるし、その方が多いかも。」
「でもそれって、やっぱりなんだかイヤで・・・。そうゆうことを考えながら書いた曲です。」

今回はイントロとして、セッション的なインストにはるかさんのスキャットが絡む、
という短い「つなぎ」からのメドレー形式でプレイされ、より劇的な展開が演出されていた。


"僕の神さま"は確かに「そうゆうこと」を扱った曲だが、かなり前からある曲だ。

わたしが初めてラウズを観た3月15日(月)にもやっている。しかし、曲調はまったく違っていた。
以前は現ヴァージョンほど「トゲ」がなかった。もっと穏やかだった、とさえ言える。
それが激変したのは、新体制となって最初のライヴである9月14日(火)からだった。
初めは新曲だと思った。後から言われて気づいたのだ。それほどアレンジを変えていた。
(訂正。7月28日の、前ラインナップ最後のライヴから新アレンジになった。)

ラウズのなかでは「激しい」部類に入る曲だが、ライヴだとそこに込められた想いのため、
歌詞にあるような、こどもが抱く倫理的な葛藤を含んである種の「重さ」が生まれる。
(もしくは、倫理的な葛藤は「こども」において最適な表象を得る、とも言えよう。)


さらに、同じく「激しめ」な"COUNTDOWN"がつづき、
「人間って、生まれてくるときに泣いているけど、生まれてくるのが悲しいから。」
「生まれたときから死に向かっているけど、悲しいけど、だけど生きているから。」

というMCで、新曲の"かなしみの国"が、永高さんの印象的なギターに導かれ始まった。

わたしが初めて観たのは7月28日(水)だけど、たしか6月からやっていたのではなかったか。
この曲はそれほど大きなアレンジ変更はなかったが、プレイされるたびにその濃度を高めていった。

いまでは、ラストを飾るに相応しいスケール感を備えた曲にまで「成長」したと思う。
コード感を活かしたソロに長けている永高さんのギターが、いつものように素晴らしい。

あたたかい拍手に送られてステージを後にするメンバーたち。


アンコールでは、「今日は特別なんだから、なんかしゃべって」と拓さんにマイクを渡すはるかさん。
(いや、これはほかのところ、たとえば最後の曲の前だったかもしれない。でもここにしておこう)

手元に用意していた新作を宣伝する拓さんにつづいて、ライヴ告知を命令される高嶋さん。
なぜか永高さんはスルーして、「今日は特別だから、もうひとり呼んじゃいます」と言い、
樹海の愛未さんも出てきてのかるいトーク。


最後は、「白ラウズ」の"ゆりかご"だった。
愛未さんと交互に歌い分けるかたちとなっていて、サビではハーモニーを聴かせてくれた。

アットホームな雰囲気につつまれ、共同企画「evergreen」は無事に終了。
早くも次回の開催を期待したくなった。


SETLIST
1. 新世界
2. スロウスリープ
3. Honey
4. 呼吸
5. 僕の神さま
6. COUNTDOWN
7. かなしみの国
Encore
8. ゆりかご w/ 愛未 (樹海)



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ライヴ終了後、3rd Mini Albumそこにあるひかり を購入するため列ができていた。



列が途切れるまでしばらく待ってから、わたしも購入。
ヴァレンタイン・デイ直前ということで、CDといっしょにチョコもいただいた。
(メンバーによるデコが施されているところが、いかにもラウズらしい)


いつもはかなり遅くまでメンバーの方々と談笑してから帰るのだけど、
ひとも多いし、ゲスト2人もいるので、比較的早めに会場を後にした。


落ち着く間もなくすぐに聴きだした。曲目は以下の通り。


そこにあるひかり (2011)
1. 新世界
2. スロウスリープ
3. 呼吸
4. 僕の神さま
5. かなしみの国


ライヴ版に慣れすぎていたため、多少の違和感があるのは仕方ないところ。

曲についてはライヴレポでお届けした通り。

なお、この新作に収録されなかった曲でタイトルがわかっている曲は、
"風花"、"真夜中"、"燃える空"、"暮れゆく空"、"この瞬間"の5曲。


レーベル関係で色々あったようで、ディストリビューションがおそらく弱くなっている。
新作を購入するにはライヴ会場に来るか、オフィシャルHPから通販で買うしかないようだ。


このブログをみて購入を決意される方がいるとも思えないが(アクセス数という分母が小さすぎるので)、
少しでも興味を持ったら是非とも聴いてもらいたい。


そして、聴けばすぐに思うはずだ。「なんでインディーズで活動しているの?」と。


もちろん、そういったインディーズのバンド/アーティストはいくらでもいるだろう。
この場合、わたしが単にラウズの音楽を気に入り、好きになって、応援したくなっただけのことだ。


彼らの素晴らしい音楽が、より多くのひとに届くことを願ってやまない。


Rouse Garden official
http://rousegarden.com/top/

2011-02-17

DEFTONES at Shibuya Club Quattro on 10th Feb & another one


   
先週のこの時間(現在19:20)は、DEFTONESをクアトロで観ていた。

そのわずか6日前に同会場で最愛のHEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)を観ていたため、
短い時を隔ててやってきた余韻に奇妙な感慨を抱きつつ、最前列から身を離して段差上からの観戦となった。


当日は開場時間の18時より10分は早く会場に着いたのだが、早くも多くのひとが開場を待っていた。
ほとんどのひとが20代後半~30代、だろうか。思いの外、女性が多い。

中に入るとすでにフロアはほとんど埋まっていて、会場の選択ミスを思わずにいられなかった。
他にブッキングできる場所がなかったらしいのだが、キャパ約800のクアトロはあまりに狭すぎた。
これはちょっと危ないな、と思って段上に。混雑したフロアに躊躇なく突っ込んでいく外国人多数。


日本以外では押しも押されぬ大物なので、ほぼ定刻通りに始まったことにうれしい驚きが。
これぞプロフェッショナルの仕事である。「律義」と評していたひともいたが、同感だ。

ドラマーのエイブ・カンニガムとヘルプ・ベーシストのセルジオ・ベガが登場。

ステージ奥は、サンプラー卓がその7割近くを占拠してしまっているため、
ドラムキットは上手のはじにちんまりとセッティングされていた。

エイブの実力を考えると「扱いおかしいだろ」なのだが、会場が間違っているというのが真相か。
マニラの会場の広さを考えると、東京でクアトロというのは「恥晒し」と思えなくもない)

インドの行者かヒッピー教団のグルみたいな風貌のステファン(g)が、大歓声を前にニコニコしている。
すると、その後ろに隠れるようにしていた男が中央に出てきた。もちろん、チノ・モレノ(vo)だ。

歓声はさらに大きくなり、フロアに流入するひとでさらに前方は混乱状態になっているなか、
1stからの"Birthmark"でライヴの幕は切って落とされ、会場全体が揺れ動いたかのような騒ぎに。

後の、「美しさ」を感じさせるヘヴィ・ロックではなく、
同郷のKORNと同じライヴ・ハウスに出入りしていたという「前史」を証明するが如き、
いかにも90年代と言いたくなる陰惨さとささくれた激情を撒き散らす曲だ。


さらに、アルバム通り"Engine No.9"へとつづく。
ラップ部分に時代を感じたが、力強さと勢いでそんな記憶は捩じ伏せられた。説得力が違う。

そして、オーディエンスが素晴らしい。曲を熟知しているため、体がすぐに反応するのだ。
誰もが待ち侘びていた。それも、醜いまでに太ってしまったチノではなく、スリムになったチノを。

彼独特の、すっと直立不動になったり、手を前に伸ばしたり、いきなり暴れて体をくの字に折ったり、
というアクションの数々もキレがあって、何より「楽しそう」なのが伝わってきてこちらもうれしくなる。


2ndからの"Be Quick And Drive (Far Away)"に、
ほとんど「悲鳴」が起こったと言っていい状況に。(やっとフランク(smp)が出てくる)
DEFTONESが、その独自の美意識をヘヴィ・ロックにもたらした画期的な曲だ。
(チノがとてもとても細かったことを証明するPVで有名、と言うべきか?)


前々回のHPPライヴレポでも一部書いたように、
90年代のヘヴィ・ロックは基本的に80年代型メタルへの「反発」として始まった。
曲の規格化から逃れられる反面、パッと聴いた限りの「つかみ」は弱い、という特徴を挙げたが、
そのトップ・クラスのバンド勢がそうであったように、圧倒的なまでに肉感的なグルーヴは強烈で、
その心地よさとヴォーカルの気持ち悪さ(おもに「普通に歌わない」ことを指すとしよう)にハマると、
このジャンルの音楽的クオリティというもの、もしくは「ツボ」がわかるようになるだろう。

個人的には、DEFTONESのほかにKORNとTOOLと、そしてALICE IN CHAINSを挙げたい。
どのバンドも、グランジでもオルタナでもない、彼ら自身の音楽をやっている。


"My Own Summer (Shove It)""Lhabia""Around The Fur"と2ndの曲がつづく。
オーディエンスもまた、うれしくてたまらない、といった反応をつづけていた。
それもそうだろう、DEFTONESがその名を世界に知らしめたアルバムである。わたしもこれで彼らを知った。
そしてそのときには、上述したような理由でその良さがわからなかった。「聴き方」が間違っていた。

彼らの音楽は、その歌メロやリフを追って聴くのではなく、その全体像を感じながら聴かねばならない。
すべてが有機的に連関しているアンサンブルのしなやかさにこそ、この手の音楽の神髄がある。

玄人受け抜群のエイブ・カニンガムのドラミングは、予想以上に衝撃的だった。
ドラムを殴りつけるようにぶっ叩いているのだが、あのグルーヴの強力さといったらない。

チ・チェンの代役を務めるセルジオも、ステージ真横を向いたマイク・スタンド以外は納得の出来。
少し色の薄い黒人で髪を金髪にしていたので、ダグ・ピニック(KING'S X)を思い出した。小柄だったけど。

ソロは一切弾かずにリフ、リズム、コードに特化したギターを聴かせるステファンも、
動きの激しさはさすがに衰えてきたようだが、アルバム通りに完璧な音作りで文句なし。
(フランク?場所とっているわりには、「まあ、いるよな・・・」ぐらいの印象しかない。)


非常に素早いステージ転換で、本日はじめてチノがギターを持った。
エイブのカウントにつづいて3rdからの"Digital Bath"がゆったりと、しかし緊迫感をもって始まった。
ギターを弾きながらでも、「あの」ハイトーンを余裕で出して見せるチノ、やはり只者ではない。
(以後、バラード系?の曲でのみチノはギターを弾いていた。)

そのヴォーカルと、素晴らしいとしか言いようがないドラミングにうっとりしてしまう。
「普通の」キャッチーな曲を歌わせたらより一層チノの名声と評判は高まるに違いないのだが、
そうゆうことをしないで、「自分の方法」を貫いて歌いつづけるところにこそ信頼ができる。


"Knife Party"でオーディエンスとの掛け合いもしつつ、
これまで年代順に進行していた流れ通りに、4thから"Hexagram""Minerva""Bloody Cape"とつづく。

正直に言って、わたしはこの4thがあまり好きではなかった。聴くタイミングが悪かったかもしれない。
それでも、ライヴという場で聴く/観ると、その魅力の一端にやっと触れた気がした。今後は愛聴できそうだ。


ステファンのギターが7弦から8弦に変わり、ここで編年体が崩れて新作の登場と相成った。
引き摺るようなヘヴィなリフと、浮遊感漂うチノのヴォーカルのコントラストが美しい"Diamond Eyes"から、
初期のささくれた質感を思い起こさせつつ以後の方法論を挟み込む"Cmnd/Ctrl""Royal"で会場を沸かせ、
そして彼らの独壇場といっていい、ポストロック的な拡散美を放つバラード"Sextype"で感動させる。

実に巧妙で練られたセットリストだと感心することしきり。
硬軟両面を活かし、かつオーディエンスをムダに疲れさせず集中力を保持させた点で、完璧に機能していた。


ゆえに、感動したあとは大暴れである。
"Rocket Skates""You've Seen The Butcher"と、8弦ギターの威力が炸裂する。
とくに後者のリフは、それこそタイトル通り「肉屋」の大包丁を想起させるザリゾリした音が衝撃的で、
じっくりじっくりと、骨から肉を削いでいくかのような「厭な」感触が最高だった。音の魔術がここに。


近年の集大成的な"Beauty School"にまたしても感心させられたあと、ふたたび過去へ戻る。

5thから、不思議な明るさをその轟音のなかに見出さずにはいられない"Hole In The Earth"と、
どこか天に昇っていくイメージのある"Kimdracula"がつづき、4th同様5thも見直すことに。

チノが激太りしていたこともあるのだろうが、5thもまた個人的心象は芳しくなかったのだ。
ただ、今回の来日に合わせて予習がてら購入して聴き返したところ、その音像に改めて感心した。
5thからはこの2曲だけだったが、こうしてライヴでこそ楽曲の真価というものは問われるのだし、
またちゃんと聴き直そう、という反省を促されることにもなる。


もちろん、前回・前々回に書いたHPPも同様だが、ある一定のレベル以上のバンドでなければ、
そのような思いをオーディエンスに抱かせるのはほぼ不可能である。

彼らのライヴは「曲の再現」ではなく「曲で再現」することにウェイトが置かれている。
では、曲「で」再現する、とは何を意味するのか?何を再現するというのか?

それは、曲に込められた想い、記憶、感情であり、多くの場合、「痛み」だ。
ゆえに、その再現は精神的にハードルが高い。だからこそ、表現が熾烈になる。
そして、だからこそ、想いを共有するオーディエンスを見て笑顔になる。


そんなことを考えていたら、チノがギターを持って"Change (In The House Of Flies)"を始めた。
フェイヴァリットの3rdからの曲でひとしきり感動していると、一番好きな"Passenger"が。

フロアも段上も凄い盛り上がりで、みんな思いは同じなのだと実感。
オリジナルはゲスト参加のメイナード(TOOL)節がおもしろいくらい炸裂するナンバーだが、
もちろんチノは、力技であの節回しを自分のものにしていた。驚異的なヴォーカリストだ。

表現者としてのステージングもさることながら、とにかくあの豊かな声量と声の多彩さ、
それをアルバム通りどころかそれ以上のレベルでやすやすと披露するのだから恐れ入る。

百戦錬磨のベテランとして貫録たっぷりな一方で、こどもじみた動きや表情がまた、いかにも彼らしい。

ヘヴィ・ロックをやっているミュージシャンは、最終的にイノセントな印象が他に勝る。
その繊細さ、脆さ、傷つきやすさ、をその表現の根底に見てしまう。わたしの偏向だろうか。


素晴らしいパフォーマンスを披露したバンドは、ステファンを残してステージを去った。
残されたステファンはひとり、フィードバックやら何やらの残響音で即興を演出、
少ししてからメンバーがひとりずつあらわれ、アンコール(と言っていいのか?)に。


1stからの"Root"のリフが場内に響いたときの、あの暴動まがいの騒ぎをどうあらわしたものか。
とうのむかしにパンパンになっていたフロアに、ここぞとばかり駆け込む新規参入組のため、
前方フロアはもみくちゃどころか見ているだけで心配になってしまうほどの混沌とした状況に。
(あれ、怪我人出なかったのだろうか…。プロモーターはさぞ肝を冷やしたことだろう。)
前方の柱に寄りかかったチノの腹をぽんぽん叩いていた輩がいたのには笑ってしまった。


これまでの進行から察せられたように、アルバムの流れそのまま"7 Words"へ突入。
こうして、彼らにしてはストレートな初期の曲を体感していると、またこんな曲を書いてほしいと思ってしまう。
去年リリースの新作が「初期に戻った!」みたいな触れ込みだったけど、
実際は以後の独自路線の素晴らしさはさておいて、初期衝動は期待したほどではなかった。

成長しつづけるバンドに必ずつきものの、「ないものねだり」ではあるのだけど。

ライヴの場で、しかもこれほど素晴らしいパフォーマンスで、
初期の曲をやってくれただけでもありがたい。是非とも近いうちにまた来日してほしいものだ。


SETLIST
01. Birthmark
02. Engine No.9
03. Be Quick And Drive (Far Away)
04. My Own Summer (Shove It)
05. Lhabia
06. Around The Fur
07. Digital Bath
08. Knife Party
09. Hexagram
10. Minerva
11. Bloody Cape
12. Diamond Eyes
13. Cmnd/Ctrl
14. Royal
15. Sextype
16. Rocket Skates
17. You've Seen The Butcher
18. Beauty School
19. Hole In The Earth
20. Kimdracula
21. Change (In The House Of Flies)
22. Passenger
interlude
23. Root
24. 7 Words



ところで、この日はもうひとつライヴを観た。

DEFTONES及びそのスタッフがプロフェッショナル中のプロフェッショナルだったおかげで、
あんなにたくさんの曲をやっても110分程度で終了(MCをほとんどしなかったのも功を奏した)、
終わったときはまだ21時まえだったのだ。

実はこの日、渋谷では「フリージアとショコラlll」という女性ヴォーカルのイベントが行われていて、
そのうち「ロック部門」のO-Westに、HEAD PHONES PRESIDENTが出演していたのである。

キャリアとメンツから、出演はトリかトリ前と踏んでいたので急いでO-Westに向かった。
着くと21時を少し過ぎたあたり。いつもの顔ぶれがまだいるので、間に合ったと悟る。


ライヴレポは長いものをすでにあげているので、簡単に感想を述べるに止めておく。

・ライヴが二回続けてクアトロだったので、O-Westの天上の高さが気持ちよかった。
・というか、クアトロは構造上問題がありすぎるから、できるだけ避けてほしい。
・どんなイベントに出ても「浮く」のがHPPだが、久々に完膚なきまでの浮きっぷりで天晴れ。
・DEFTONESを観た直後でも引き込まれてしまうその世界観の強度にあらためて感嘆する。
(わたしが重度のファンであることを差っ引いてもこのことは言えるはずである)
・"Nowhere"で幕開けは久しぶりだけど、最高。イントロ、少しだけ変えた?
・新曲、これで観る/聴くの6回目だが、もう覚えた。少しずつ変わってる。完成が楽しみ。
・"Light to Die"は天井が高いとより映える。HPPに必要なのは「天井の高い会場」である。

などなど。

これでしばらくライヴの予定がないのが残念。
(マルセイユにまで行けば観れるのだが…。)


彼らもまた独自のヘヴィ・ロックを展開するバンドだ。
そしてそれ故に、メタル系の国内バンドとはまた一味違った苦戦を強いられている。
(女性ヴォーカル、ということもあるだろう。いや、他にもいろいろある。)

ジャンルも属性も関係なく、真摯に音楽に耳を傾け、虚心にライヴを観ること。
それさえできていれば、DEFTONESやHPPのように素晴らしいバンドが苦戦するはずもない。

逆に言うと、それができていないのが日本の現状だ。
リスナーも、ライターも、その他「ギョーカイ」関係者も。

わたしには、そんなバンドたちを細々と零細ブログで応援することしかできない。
それが歯痒くて仕方ないが、どうしようもないと呟くよりほかにないのであった。


HPP at O-West on 10th Feb

SETLIST
1. SE
2. Nowhere
3. Desecrate
4. Reality
5. (new song)
6. Light to Die
7. Sixoneight


  

2011-02-13

HEAD PHONES PRESIDENT at Shibuya Club Quattro on 4th Feb (Pt.2)

   

前回に引きつづき、HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)のツアー千秋楽となった、
クアトロ公演のライヴ・レポートを、余剰な考察部分とともにお送りする。

対象が対象だけに書くにも読むにも集中力が求められる。斜め読みなら読まないほうがいい。

それではつづけよう。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



跪いたまま、あのVary (2003)冒頭を飾る極めて印象的なメロディを歌い出すAnzaさん。

1フレーズ歌うと手元のエフェクターをポンと押し、
次は歌わずに様々な表情を浮かべ、体を揺らしつつそのフレーズを聴く。
そこにまた歌を重ね、また聴き、重ね、聴き、というループが曲を次第に形成していく。

その間に、ステージではアコースティックのセットが用意されていく。

メンバーの誕生月と、曲の誕生地グラウンド・ゼロに由来するタイトルは、
オリジナルの"58465/0"から、Okajiさんが抜けて"5848/0"へ、またBatchさん加入で"58485/0"となり、
そしてMarさんの脱退で"5885/0"と、その表記を変遷させた。(名残はマイスペのアドレスに見られる)
これ以上、このタイトルが変わることはないだろう。

会場を包んでいたAnzaさんの声は、その十重二十重に重ねられるにつれ悲しげな色を増していった。
ピークに達したところですべての声を断ち切り(一瞬にして空白に放り込まれたかの如き落差を感じる)、
いま一度、冒頭のメロディをなぞるAnzaさん。


Hiroさんがアコースティック・ギターを静かに鳴らし、"Life Is Not Fair"が始まった。
Pobl Lliw (2010)ヴァージョンから更にアレンジを施し、はじめはAnzaさんとHiroさんだけでプレイされ、
そこにNarumiさんBatchさんが加わるというかたちに落ち着いたのは、名古屋公演のときだった。

オリジナルからして劇的な展開の曲だったがゆえに、より一層その展開を彩るアレンジとなった。
さらに、ギターソロ前半部は完全にHiroさんの「独奏」となった。一音一音に耳と視線が集中する。


ロック・ギタリストにとって、アコースティックの独奏を強いられることほど嫌なものはないだろう。
エレクトリックでは誤魔化せても、アコースティックではそうはいかない。まして独奏なら尚更だ。

リッチー・ブラックモアは「誤魔化せない。難しい。緊張する。だからやる。」という趣旨の発言をしている。
技術もさることながら、それ以前に求道者的なギタリストでなければ挑戦できないし、してはならない。

ロックやメタルだけでなく、ジャズやフュージョンの素養があるHiroだからこそ可能なヴァージョンであり、
それはHiroを支えるNarumiとBatchにも言えよう。ふたりとも、やはり音楽的素養の幅が広い。
Batchはパーカッションを習っていた時期もあり、それがニュアンスに富んだドラミングにもつながっている。
セルフ・カバー作であるPobl Lliwが示したような、ロック以外のジャンルを想起させる豊饒な音楽性を、
いったい他のどのヘヴィ・ロック・バンドが示し得るだろうか?彼らの独自性には、まだまだ底が見えない。


独奏の最後のパートにハーモニーを付け足すという余裕を見せたあとバンドが加わり、
ホッとしたかのように凄い速弾きを見せるHiroさん。正確無比な精度の高さに毎度驚かされる。

Anzaさんのヴォーカルから"Fight Out"が始まる。

個人的に、聴く/観るたびにタワーレコードでのインストア・ライヴを思い出さずにいられない。
明るい店内のなか、カジュアルな装いで軽やかにプレイされたこの曲にHPPの新たな面を感じた。

その日のことを思い出しつつ、情念の重さから解き放たれ「心地よさ」さえ感じさせる同曲に体を揺らす。
例外的な路線ではあるのだが、HPPの音楽的ヴァリエイションの豊かさを知らしめるいい選曲だと思った。

10月のアコースティック・ライヴ同様、上手側と下手側にそれぞれ組んだパーカッション・セットからは、
俯きながら確実にパーカッションを叩いていくBatchさんの表情は窺えないが、とても楽しそうに見える。
(ちなみに"Life Is Not Fair"が下手側、"Fight Out"が上手側のセットだった。)


「センキューソーマァーッチ」と言ってステージを後にするAnzaさん。

エレクトリック・シタールが用意され、Hiroさんのソロにつづいてセッションとなった。
(名古屋公演ではジャックオフ・ヴィブラートを披露していたが、今回はなし。)

シタール特有の「揺らぎ」のある音色に魅せられる。会場がやわらかな「なにか」に包まれる。


Anzaさんが、先日の水戸公演から着用しているニットの上着と赤スカートに着替えて再度登場し、
Batchさんの繊細なシンバルワークを受けて、Hiroさんが"A~La~Z"のアルペジオをつま弾きだす。

いつ聴いても/観ても、形容しがたい雰囲気の曲だ。
9月のBoxx公演レポでは「水」のイメージを借りたが、それはあくまで前半部にのみ当て嵌まる。
このツアーではむしろ、後半のラウドなパートの印象が強かった。今もってなぜなのか、わからないが。



Anzaさんの消え入るような声で曲は終わり、
Hiroさんがいくつか、次の曲の手掛かりになるような音を紡いでいく。

大阪と名古屋ではそのライヴ版イントロが省かれていた"ill-treat"が、
イントロつきの劇的な「完全版」としてプレイされた。内に秘めた、いや、秘めてはいられない激情とともに。

これまたBoxx公演レポで「精神的重さ」「カタルシス」といった言葉を使ってはいるが、印象は変わらない。
いつ観てもその鮮烈さにハッとさせられるが、「その鮮烈さ」の内実のいかほどばかりを享受し得ているのか?
水戸公演では「得体のしれない恐さ」と書いた。何かを拒む、厳然たる「他者性」を感じているのかもしれない。

かつてはMarさんが担当していたエンディングを、金沢公演以降はNarumiさんが引き継いでいる。
"Light to Die"同様、そこに驚きかつ納得された方も多いのでは、と思う。違和感はない。初めから。


Anzaさんが「みなさん、大丈夫ですか~?それでは、むかしの曲をやりましょう。」と珍しく声をかける。
Hiroさんが"Shit Now"のイントロとなる信号音のような音をギターで出すと、大阪では大きな声が上がったのだが、
クアトロでは知らない人が大半を占めたのか、そうはいかなかった。廃盤となって久しい2ndシングルの曲だ。

初期HPPらしい躍動感のあるヘヴィ・ロックで、ギターが一本でも分厚いリフの印象は損なわれていない。
NarumiさんだけでなくHiroさんまでもがコーラスをとるのが新鮮である。当時はどうしていたのだろう。


ドラムのカウントから間髪いれずに"Free Fate"へ。このツアーでようやく初めて観れた曲である。
東京ではこれが初演となるのではないだろうか。ストレートなようでいて、細かいヒネリがきいている。

ライヴは終盤に差し掛かっており、Anzaさんの髪や肌を濡らす汗が小さく光るのが目立ってきた。
Narumiさんも、はじめは端正に固めていた髪型が、激しい動きで崩れて総毛だったようなかたちになっている。


Anzaさんのヴォーカルからセッションが始まった。これまでのツアーではなかった類のものだった。
楽器陣はともかく、セッションではいつもAnzaさんはスキャットか「Anza語」による即興的な歌に興じる。

「セッションのできるバンド」はいま、それほど多くはいない。ただ、HPPのそれはひと味もふた味も違う。
彼らの音楽家としての優秀さが基盤を成しているのは当然のことなのだが、自然発生的なセッションではなく、
セットリストの連関性を考慮に入れた上で、楽曲同士のイメージをつなぎ、かつ増幅するために為されている。

ゆえに、セッションを経過したあとに登場する曲のインパクトは強い。
今回は"f's"だった。金沢ではプレイされていたが、大阪と名古屋では外されていた。

Narumiさんが特徴的なベースラインを弾きだすと、すぐさまその世界観に取り込まれてしまう。
精神を病んでしまった何者かの暗い情念を感じる。いや、それはAnzaさんそのひとではないのか?
Anzaさんの目に、涙が見えた。それも、悲しくて泣いているというより、悔しくて泣いているように見えた。

「ふたつの顔」について、激しさを増しつつ歌われる。曲の世界に入り込んだNarumiさんの表情も只事ではない。
その剣呑さがさらに度合いを高め、呪術的なリフレインとなってステージ上を「異界」にまで変容させたかと思うと、
憑依した悪霊を振り切るかのような、暴力的なまでに力の籠った演奏で、ほとんど唐突に曲を終えた。


まだ残存している思念に最後の一撃を喰らわせるかの如きドラミングで"Endless Line"が始まり、
優しさ、穏やかさを感じさせる、浮遊感漂う序盤でようやく息をついたかと思ったのも束の間、
叫びが空間を引き裂き、その裂け目から溢れだした想いに合わせて演奏もふたたび激しさを取り戻す。


重い余韻がわれわれに静寂を強いるなか、Anzaさんが"Alien Blood"冒頭のコトバを、ひとつ、
またひとつと、やっとの思いでどうにか口にしているかのような苦しさを感じさせつつ、吐き出した。

Narumiさんが、Marさんに代わって「あの」不気味なリフをピック弾きで刻みだす。
なにか、「厭なもの」がゆっくりと首をもたげてこちらを覗き込んでいるかのような、あのリフを。

その「厭なもの」は、やはりゆっくりと立ち上がり、こちらに少しずつ歩み寄ってくる。
そして、リフの炸裂と同時に一気に襲いかかってくると、会場を凄惨な色に塗りかえた。

ステージ上では、これまで以上の激しい感情に囚われたメンバーがのたうちまわるように動き回っている。
Narumiさんなどは、金沢や名古屋でもそうだったように、いまにも舞台袖に駆け込みかねないほどの勢いだ。

Anzaさんは、観ているこちらが心配になるほど悲痛な表情を浮かべている。苦悶。恐怖。憤怒。当惑。絶望。

目にしているのが恐ろしくなる。これはロックのパフォーマンスをとうに超えている。でも、目を離せない。



少し、ステージから離れよう。

「佯狂(ようきょう)」という言葉をご存知だろうか?
「狂気のふりをする」くらいの意味を持った言葉だ。
いわば、演技としての狂気、狂人を演じる常人、のことである。

HPPの、魂を削るかのような壮絶なパフォーマンスを目の当たりにしてもなお、
それが「演技」だと思うほど粗雑な感覚を持った人間には何を言っても無駄だろうが、
彼らのパフォーマンスは「演技」などではないし、彼らは決して「佯狂」ではない、と断言する。
誤解を招く言い方ではあるが、この時、彼らは本当に「狂っている」と考えたほうが理に適っている。


あなたは「演技」について考えたことがあるだろうか?
台詞を覚える。稽古を積む。リハーサルを重ねる。そして迎える本番。

そう、その「本番」で起こっていることとは、いったい何なのか?
台詞を、稽古を、段取りを思い出している?舞台とは関係のないことを考えている?
それもあるだろう。いや、そんなことばかりかもしれない。しかし、そうでない場合もある。

彼らは、もちろん台詞を覚える。だが、舞台に立った瞬間にそれを忘れる。なかったことにする。
台詞を覚えていると、それを思い出そうとするからだ。そして思い出せないとき、声に詰まって素に戻る。

思い出そうとすること、それは過去を、この場合は稽古やリハーサルを再現しようとすることに他ならない。
それではいけないのだ。舞台上の時間、それをいまこの瞬間に立ち現われた現在として生きねばならない。

台詞は半ば無意識化され、かつ半ば意識されつつ、その役の人物が発した言葉として舞台に放たれる。
だからこそ、観客は固唾をのんで舞台を注視しつづけるのだ。その時間・空間は再現されたものではない。

このとき、舞台は「鋳型」として機能する。脚本に変わりはない。
だが、注がれるものはその都度、変わり得る。そのような余地を、必ず残しているのだ。
(むしろ、仮にそうした「余地」の消去に奔走したところで、その試みはあっけなく潰えてしまうだろう。)


音楽でも同じことだ。プレイヤーが楽曲のすみからすみまで熟知していることは言うまでもない。
それを、台詞を思い出し、なぞるようにプレイする「再現型」のミュージシャンもいれば、
その場で楽曲を創出しているような精神状態でプレイする「創出型」のミュージシャンもいる。
(どちらがいいわるいと言うのではなく、そのような資質があることを言っているだけだ。)

HPPは全員が後者だ。
彼らがミュージシャンとしてプロフェッショナルな技量を備えていることは言うまでもないことだが、
その上、音楽に入り込み、一体と化し、自らが音楽そのものとなる「表現者」の特性をも備えている。

ゆえに、入り込んだ音楽が「狂った」ものであれば、彼らも「狂う」のであり、
それは「演技」ではなく、彼らが呼吸する「狂気」という「現在」なのである。

おわかりいただけただろうか?

これですら概略に過ぎない。

いまはまた、ステージに戻ろう。



"Alien Blood"の狂的な暴虐が吹き荒んだあと、荒ぶる魂を鎮める幽かな音が聞こえてくる。

チリーン、という音が何度もする。その度に「なにか尊いもの」がステージ上に姿をチラつかせる。

目を閉じたままのNarumiさんが"Sixoneight"のコードを、弾くのではなく撫でるように、奏でる。
温かく、しかし一抹の寂しさを帯びたそのコードが奏でられる度、やはり「なにか尊いもの」を感じる。

Anzaさんが祈るように歌い出し、HiroさんとBatchさんが静かにその背後に音を積み上げていく。
しかし、辺りを漂っていたはずの「なにか尊いもの」は、手が届きそうだったところで突如その身を翻し、消えた。

その瞬間、淡い希望を灯していた蝋燭はその火を掻き消され、激昂した絶望の炎に転じる。
なにか尊いものは姿を消した。いや、ほんの短い間だけ、また戻って来てくれた。だが、再会の時はすぐ終わる。

Anzaさんの「DIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIEEEEEEEEEE!!!!!!」という叫びが、ステージ上にカタストロフィを呼びよせる。

激しさは増しつづけ、これより先はないというところまで行きつく。
そして、会場いっぱいに拡がっていた感情が、一瞬で収束する。

すべてが終わり、謝意を告げステージを去るAnzaさんにつづいて、メンバーがステージを後にする。


会場からは盛大な拍手と歓声が送られたことは、言うまでもない。

濃密なセットが終わったことで、ようやく深い息をつくことができるようになった。


アンコールでは、NarumiさんHiroさんが交互にシンバルを叩いてBatchさんのドラムソロを促す。
本日からツーバス仕様となって、その威力をさらに増した叩きっぷりを見せつけるBatchさん。

スカートを赤から黒にしたAnzaさんが轟音を鳴らすバンドを制し、中央でMCをとる。Marさんについてだ。


「ご覧のように、HEAD PHONES PRESIDENT、四人になってしまいました。」
「Marは今、音楽の世界からは身を離して、新たな目標に向かって、とても元気に暮らしています」
「本当だったらなにかコメントを残すべきなのですが、彼の意思を尊重して、こうゆうかたちになりました」
「四人になったHEAD PHONES PRESIDENTを、これからもどうぞよろしくお願いします」


深々と頭を下げるAnzaさんに、大きな声援が送られる。

「あと2曲やりまーす。楽しんでいってください。」

そう言ってプレイされたのは、このツアーで1曲も選ばれていなかったVacancy (2005)から、
重厚なリフで始まる"Snares"だった。久々の選曲ということもあるが、重い曲なのになぜか楽しさを感じた。


それはつづく"Chain"にも言えることだ。曲に込められた想いからしたら決して「楽しさ」に結びつきはしない。
でも、そんな幸せにも似た思いを感じた。それはステージの上と下を問わなかったに違いない。

Narumiさんは、柵とステージの間にまで降りて来て、終始笑顔でプレイした。
それを見てAnzaさんも笑いながら歌っている。HiroさんもBatchさんも楽しそうだ。

ステージに戻ってきたNarumiさんを迎えて曲が終わり、
「ありがとうございましたーっ!!」の声をもってして全楽器が爆音で暴走する大団円へ。


最後に記念撮影をして、ライヴは終了した。

わたしには感謝の言葉しか出てこない。


素晴らしいライヴを、ありがとうございました。


SETLIST
01. SE
02. Hang Veil
03. Reality
04. new song
05. Desecrate
06. Labyrinth
07. Light to Die
08. What's
09. Nowhere
10. puppet
11. Cray Life
12. 5885/0
13. Life Is Not Fair (acoustic ver.)
14. Fight Out (acoustic ver.)
15. A~La~Z
16. ill-treat
17. Shit Now
18. Free Fate
19. f's
20. Endless Line
21. Alien Blood
22. Sixoneight
Encore
23. Snares
24. Chain



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2011-02-11

HEAD PHONES PRESIDENT at Shibuya Club Quattro on 4th Feb (Pt.1)

.

やっと、HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)のライヴレポをお届けできる。


昨年11月にMarさん(g)の脱退によって四人組として活動をつづけることを選択したHPPが、
翌12月のrowtheとのツーマン・ライヴまでの短い間に急ピッチで新体制でのライヴを仕上げ、
素晴らしいパフォーマンスを披露してくれたことはすでにブログでご紹介した。

その後、年が明けてからHPPは金沢(8日)、大阪(23日)、名古屋(29日)とワンマン・ツアーを開始、
わたしも後を追って全公演を観てきたこともまた、ブログでご紹介した。

肝心のライヴの内容についてほとんど触れずにいたのは、
ひとえにまだ観ていない方の驚きと楽しみを奪うことが躊躇われたからであり、
また、その充実したライヴを体験しさえすれば、たとえ四人編成となったことへ懐疑的な方であっても、
間違いなくHPPの選択に得心し、今後の活躍にいっそうの期待を募らせるであろうと確信していたからだ。

ゆえに、ワンマン・ツアー千秋楽となる渋谷クアトロ公演の終了までは、
その詳細については触れまいとあえて避けていた。それだけ変更点も多く、語るべき点は多かった。


しかし、と呟かずにいられないのは、クアトロ公演は撮影され、晩春にはDVDリリースが予告されていることだ。
近いうちに、ほぼ完全なかたちで映像が視聴可能になる公演について、果たしてレポートが必要であろうか?
記憶の齟齬と改変と捏造を無残に晒すだけになりはしないだろうか?と思わずにいられなかった。

むろん、リリースまではドキュメントとしての価値は暫定的に保証されるのだし、
これは義務でも商売でもないのだから、そんなことを気にするほうがどうかしているのではあるが、
これまでのような、再現的なライヴレポをあげることに違和感があった。


そこで、今回はクアトロ公演のライヴレポとしてお届けする一方で、
金沢・大阪・名古屋で観たライヴの記憶もオーヴァーラップさせつつ、
HPPというバンドの特異性やライヴ・パフォーマンスについての考察も付加することにした。

そのため、かなりの長文となることをお断りしておく。時間があるときに、じっくり読んでいただきたい。


それでは、HPPがいかなるバンドであり、かつまた新生したのか、
クアトロ公演を軸に語っていくことにしよう。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *






開演時間から15分ほど経ったころだろうか、水戸公演から使われている「鐘」のSEが聞こえてきた。
場内はまだ客電が点灯していたので、戸惑った。すぐに消えると思ったのに、なかなか暗転しない。

いつもならメンバーが登場して楽器を鳴らしだし、Anzaさんがヴォーカルを重ねだしてライヴは始まっていた。
そのタイミングがのびたことに違和感があり、戸惑ったのだった。そしてようやくの暗転。

ステージ中央のピンスポットにBatchさんが歩み出て拳法家のような一礼をし、
つづいてHiroさんも一礼。下手のNarumiさんだけはライトを浴びずに、いつも通りに定位置についた。

この間、「鐘」のSEは各楽器やヴォーカルを載せたものに変わっていった。
どうやらすでに録音していたようだ。それでいつもとタイミングが違っていたのだと納得する。
(ゆえに、前回ブログにあげたセットリストでは1曲目の表記を"intro"と"SE"に変えている)

そして、黒キャミに白いニットの長袖(丈は胸下まで)、白スカートを身に着けたAnzaさんが登場、
しずしずと中央までゆっくりと歩いてきてから一礼をすると、歓声をあげていたオーディエンスは静まった。




ライヴのオープニングで毎回味わうあの緊張感を、どう伝えたらいいのか。
過去に書いたものでは、7月の水戸9月のClub Asiaが比較的よく書けている方なのだが、
あの独特な雰囲気の中核をなしているのは、言うまでもなくAnzaという存在そのものだ。

彼女が登場すると、われわれは異質な存在の出現に否応もなく気づかされ、息をのむ。
むろん、その「異質さ」の幾許かは彼女の美しさに起因してはいるのだが、
オーディエンスは、その容姿の表面上の美しさにだけ反応しているのではなく、
もっと微妙で曖昧で繊細なものを読み取り、ほぼ条件反射的に「固まる」のだ。

その存在が全身でもって開示しているのは「精神状態が常人と違う人間」を感じさせる「危うさ・脆さ」であり、
意識的な主体であるようには見えない、無意識的な本能に身を委ねた者のみが示し得る「強度」である。
(一方で、ステージとフロアの状況を見定める冷静さを技術的に習得してもいる「プロ」でもあるのだが。)

われわれが思わずたじろいでしまうのは、理性から離れることのできない人間の常として当然ではある。
「何かが決定的に違う人間」を前にしてどのように振る舞ったらいいのか、われわれはまだよくわかっていない。
そのような当惑の源泉がAnzaのように「美」を体現する存在であるとき、理知の空白は「視線」に占拠される。

あとはただ、視線が吸い寄せられるままに刻一刻と変化するステージに見入るだけであり、
会場がHPPの世界観に染め上げられる短い時間が、その短さゆえに凝縮された緊張としてわれわれを包む。

緊張状態のなか、同時に、その身がやわらかなものに包まれているようにも感じるのは、
わたしが異質な存在のなかに「救い」に似たものを(意識的無意識的を問わず)見出しているからだろうか。


なお、急いでつけ加えておくが、
わたしはなにも、ステージに美しい女性が立てばそうなると言いたいのではないし、そうは言っていない。

また、やや話が逸れるが、Anzaのイメージには常に「ダブル(分身)」がある、という点を指摘しておこう。
これは、HPPのPVを見たことがあるひとなら、容易に理解できるだろう。
必ず「黒Anzaと白Anza」か「大人と少女」が登場するのだ。
それが彼女の異質性を重層化し、さらにはその経歴をも巻き込んで、事象をより複雑なものとしている。

また、脆い内面を感じさせる表情に、彼女の俳優としてのスキルを読み込む向きもあるかもしれないが、
あれは「演技」ではないし、そう断言するだけの理由もある。それは後ほど語られよう。


水戸公演から数えて5回目となる、Hiroさんが奏でる"Hang Veil"のイントロは、
初演のとき感じた硬質なものから、Marさんが奏でていたときと同様の柔らかさを幾分か増したように思った。

ドラムが入りリフが響き渡り、いつものように激しく動きだすNarumiさん。
(左側即頭部だけ刈り上げられていたのが印象的だった)
フロアからも大きな歓声と多くのメロイック・サインが掲げられ、
「幕は切って落とされた」とでもいうような、半ば関係者じみた緊張さえ感じもしたのだった。


つづく"Reality"は、金沢公演で観たのが久々だった。(その時だけは音が悪かったが、後に改善された)
東京では、まだ2009年のワンマン(O-West公演)でしかプレイされたことはない。これでやっと2回目だ。

HPPにとって「例外的な曲」と言っていいかもしれないほどメタル寄りの曲だ。
(それでも、激烈なリフにのびやかなヴォーカルがのるという珍しいスタイルだが)
個人的に思い入れのある曲なので、ワンマン・ツアーで毎回観れたのがとてもうれしかった。

Hiroさんによるリフの刻みっぷりが実に痛快で、Narumiさんも前列の柵に乗り出して激しくフロアを煽る。
また、中間部でステップを踏みつつクルクル廻るAnzaさんの姿が強く印象に残っている。
(クアトロ公演ではやらなかったかもしれない。ツアーの間に沁み込んだ印象の総計と思ってほしい)

オリジナルは高速ギター・ハーモニーが「目玉」なのだけど、もうそれはできない。
かわりに、Narumiさんの蛮声とAnzaさんの透明なスキャットがギターをフォローする。

息のピッタリあったエンディングに歓声が上がると、Hiroさんが新曲のリフを刻みだし、
すでにツアーで聴いたことのある一部の聴衆は曲に合わせてヘッドバンギングに興じる。


ポップな、というと語弊があるかもしれない、とわたしは水戸公演のブログに書いた。
もう少し、丁寧に説明しよう。これは、あなたがHPPを「メタル」と思うか否かにかかっている。

簡潔に言うと、HPPがやっている音楽はメタルではなく(90年代以降の)ヘヴィ・ロックである。

その違いについてはDEFTONESのライヴレポでも述べるつもりなのでここでは簡略化しておくが、
ヘヴィ・ロックが80年代型HM/HRへの「カウンター(抵抗・反発)」として始まった、
という経緯を思い出さねばならない。(それだけでないことは重々承知している。)

メタルは、音楽としてのフォーム(様式)がカッチリとまとまっているため、
リフ、歌メロ、ソロなどパーツごとの精度の高さと、それらを統合する際の構築性に曲の「命」がある。
だから、その「部分と全体」の完成度が高ければ高いほど素晴らしいものとなるのだけど、
一方で、ある程度「規格」に縛られざるを得なくなり、楽曲の自由度や表現の幅が狭まってしまうことがある。


90年代に出てきた、80年代型主流メタル勢から「オルタナ」と呼ばれ蔑まれた一派が活路を見出したのは、
そのような自由度・表現の幅だった。そして同時に、明瞭な歌メロ・リフ・ソロは排することとしたのである。

だから、80年代贔屓は「オルタナはどれも曲がつまらん」と言ってちゃんと聴こうともしないし、
反対に、90年代贔屓は「メタルなんてどれも同じでダセぇ」と言ってやはりちゃんと聴こうとはしない。

どちらにもその文脈に応じたクオリティというものがあって、
聴き手はそれに合わせることで初めてその曲の素晴らしさを最大限に味わうことができる。
わたしはそれを「(認識の)チューニング」と呼んでいる。それは、享受しかできない者として最低限守りたいことだ。(もちろん、美術や映画や小説なども同様であり、むしろそちらの方が例としてわかりやすいと言えるだろう。)


わたしは一度、HPPのライヴ会場で「曲にフックがねえンだよ」と批判しているひとがいるのに気づいたことがある。話しかけられた側は同意してないのか曖昧に受け応えていたが、そのひとが「メタル好き」なのは姿で知れた。彼が求めているのは「ヘヴィ・ロック」独特の感情表現ではなく、「メタル」の「聴き慣れたフォーム」なのだろう。それは、HPPがメタルであるという前提に立ってこそ生じ得る「誤解」であり、聴き手が聴く音楽の「チューニング」を誤ったことを示している。
(言い方が粗雑だったので、それ以前の問題かもしれないが。)

わたしにはそれが残念だった。同様の誤解をしているひとがほかにもたくさんいるのだろうと思って。


新曲でもHiroさんのファストでトリッキーなソロが華々しく炸裂し、
サビで声を張り上げるAnzaさんの絶唱が、曲に曰く言い難い不穏さを懐胎させる。


曲が終わって、やはり不穏な"Desecrate"のリフがゆっくりと刻まれ、
HPP随一の獰猛さを誇るパートへ突入、AnzaさんとNarumiさんはもの凄い勢いでヘッドバンギングをし、
フロアも負けじと盛り上がる。前方の下手側では、モッシュではないが激しい動きが感じ取れた。
(わたしは前方の中央やや上手側にいたので、よくは見ていない。ステージに集中しているので)

Hiroさんのソロを挟んで(ツアーの間にどんどん長くなって、名古屋ではAnzaさんが一瞬動きを止めたほど)
"Labyrinth"のリフが刻まれ、三文ライターなら「場内はさらにヒートアップ」と書きたくなるだろう状況に。


しかし、先程の"Desecrate"もそうであるように、HPPのなかで最も「メタル寄り」なこの2曲でさえも、
ひたすら攻撃に終始する曲とはなっていない点が、彼らの音楽がメタルではなくヘヴィ・ロックであることを、
逆説的かつ端的に示している。メタルのようでいて、やはりHPP独特の「ヘヴィ・ロック」なのである。


曲終盤の爆走パートをこれまた気合いの入ったヘッドバンギングで切り抜けると、
それまでの騒ぎが嘘のように静まり、ステージ上では音楽が新たなフェイズに移行していた。

Narumiさんがベースで哀切なフレーズを奏で出し、
Batchさんの細やかなシンバル・ワークやパーカッシヴなドラミングにつづいて、
Hiroさんの叙情的なソロとAnzaさんの悲しげなヴォーカルが音楽をより大きな「なにか」に高める。

重ねられた音が徐々にほどかれて、ふたたびベースに戻ってくる。
一瞬の静寂のあとに、"Light to Die"のコードが奏でられだした。
それも、Hiroさんのギターではなく、Narumiさんのベースから。

このアレンジは金沢が初演だ。初めて観たとき、新鮮な驚きと納得の出来栄えに感嘆しきって茫然とした。
驚かずにいられないのは、CDのオリジナルを何百回も聴いているのに、違和感が一切ないことだ。

しかし、そんな驚きもパフォーマンスの見事さと、曲の美しさを前にしてどうでもよくなってしまう。
音数が減った分、HiroさんのギターとBatchさんのドラミングの絶妙さがさらにクリアになった感さえある。


このような曲は、おそらくまだHPPしか書いてはいないだろう。
透明感と天に昇るような感覚を備え、かつ激情が迸る「美しい」ヘヴィ・ロックというものは。

強いて例を挙げるならDEFTONESにそんな曲がありそうだが、ああゆう強烈な肉感的グルーヴよりも、
繊細さ、儚さ、哀しみなどとイコールなメロディやサウンドHPPは拘っているため、似ているようには感じない。
さらに、(あえて言えば)メタル的にカッチリとまとまったパート(とくにギター)をHPPが得意としていることも、
彼らを特異にして唯一無二のヘヴィ・ロック・バンドとしている点であるだろう。類例はほとんど見当たらない。


Hiroさんのファストにしてエモーショナルなソロが毎度のように見事に決まり、
エンディングではNarumiさんが激しくベースの弦を叩きながら暴れまわる。

金沢公演だけはここでスラッピングによる短いベースソロが挟まれたのだが以降は姿を消し、
オリジナルの序盤はカットして、ドラムのカウントから始まる"What's"へ。
毎回そうなのだけど、こどものように楽しげな表情を浮かべてスラッピングをするNarumiさんがたいそう印象的。

これまた音数が減ったせいか、それともこちらが感知しえないレベルでの細かいアレンジの賜物なのか、
Hiroさんの浮遊感あるギターが前面に押し出されるかたちとなったため、よりクリアでタイトな感触を得た。


2002年の時点でこのような曲を発表していたことに改めて瞠目せねばなるまい。
基本線は90年代型ヘヴィ・ロックなのに、ヴァースのギターや中間部の静かなパートなど、
同路線の楽曲群を解体・再構築した手腕には驚きを禁じ得ない。
それでいて複雑にはならず、ロックのストレートさを保っている。


弾けるようなグルーヴにひとしきり会場を沸かせたあと、"Nowhere"のイントロがつま弾かれる。

オリジナルのギター・ハーモニーがあまりに印象的であるため、
ギターが一本になってのこの曲に違和感を覚えたひとがいても仕方ないとは思う。
実際、わたしも水戸で初めて観たときはそう感じた。それはメンバーも同じだったのかもしれない。
金沢、大阪、名古屋とアレンジが何回も変わったのがこの曲だった。
水戸でやっていた新しいリフのセクションを外したのが金沢、
ヴァース~ブリッジの「I'm nowhere, Im nowhere, I'm nowhere」のパートを変えたのが大阪と名古屋で、
このクアトロ公演では、元に戻して金沢公演と同様にほぼオリジナル通りとなった。

だが、何回か観ているうちに「慣れた」と言うよりは「四人版」として聴ける/観れるようになった。
それに、ギターが単音となってもこの曲の威力に揺るぎはない。その哀しみと激しさにこころを奪われる。


ここで短いセッションに。Anzaさんが、スキャットにつづいて
「パ、パ、パ、パパパパパパパパペット」と歌い出す。

曲はもちろん"puppet"だ。Batchさんのドラミングが激しさを増し、頂点に達したところで刹那のブレイク。
オリジナルよりさらに凶暴になったリフが轟音とともに掻き鳴らされ、Anzaさんも人形のような動きを見せる。

ヴァースの部分では毎回違った「パペット」の動きを見せてくれるのが個人的に楽しみである。
足の動きを感じさせずにクルクル廻ったり、同様に奥から前方に寄り目をしながら移動したり、
東南アジアの人形のような手の動き(タイの仏像のような、と言えば少しは伝わるだろうか?)をしたり、
元気よく行進する小学生のような足踏みを見せたり、と様々である。
今回は、足踏みをしつつ左手をナナメ上方にあげたりおろしたり、というもの。

ファニーなようでいて、それでも「異質な存在」としての雰囲気を纏ってもいるため、ユーモラスな感触はない。
いや、むしろひとによっては「恐い」との印象が勝るかもしれない。演技でないならばいったい何なのか、と。

水戸公演以来、ギターソロではAnzaさんがスキャットすることで音の薄さを感じさせないようにしているが、
ヴォーカルがなくても十分なほど音圧はあるように感じている。それだけ、バンドはタイトにまとまっている。


音楽への集中、という点でもHPPは特異な存在だ。入り込みすぎるほど曲に入り込む。
だからその表現は常にダイレクトであり、誤魔化しも「素になる」という事態も起こらない。
HPPのライヴが濃密で、観る側にもある程度の集中を求められるのは、当然ではあるのだ。
彼らの魂を削るかのような本気のパフォーマンスに、どうしようもなく共振させられてしまう。
(そして、ただ享受するだけでは申し訳ない気がしてくる。だからわたしは書き始めたのだ。)


"Cray Life"が一糸乱れぬアンサンブルで始まる。
このギター・ハーモニーもまた、Anzaさんのスキャットで補強が為されていて違和感を軽減している。
バンドの緊密なアンサンブルが、悲痛で劇的な曲を盛りたてる。


完全にHPPの独壇場である、哀しみと怒りを強く感じさせる「美しい」ヘヴィ・ロックだ。
どう表現したらいいのか悩まずにいられないのだが、HPPはその独自性ゆえに「枠」からはみ出してしまう。

独自の美意識に貫かれたヘヴィ・ロックであり、メタル的な部分も多分に持ち合わせており、
ワールド・ミュージック的なアレンジに長けていて、その上、ヴォーカルが女性。
それも、ただの女性ヴォーカルではなく、バンド以前に「経歴」のある女性。
これほど、紐解かねばならない因数のあるバンドも珍しい。語ることはいくらでもある。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



随分と省略したつもりだが、それでも長くなってしまった。
ここまでを前半として、残りは後半にまわすことにしよう。
あした(土曜)は所用が重なっていて手がつけられないので、日曜に後半をお届けする。


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2011-02-05

HEAD PHONES PRESIDENT Japan Tour 2011 Solo Shows Setlist

   
HPP at Az on 8th Jan
Opening Act / A(c)

SETLIST
01. SE
02. Hang Veil
03. Reality
04. (new song)
05. Desecrate
06. Labyrinth
Session A
07. Light to Die
08. What's
09. Nowhere
10. puppet
11. Cray Life
12. 5885/0
13. Life Is Not Fair (acoustic ver.)
14. Fight Out (acoustic ver.)
Session B
15. A~La~Z
16. ill-treat
17. Free Fate
18. f's
19. Endless Line
20. Alien Blood
21. Sixoneight
Encore
22. Chain



HPP at Club Vijon on 23rd Jan
Opening Act / SoundWitch

HPP at Apollo Theater on 29th Jan
Opening Act / low it

SETLIST
01. SE
02. Hang Veil
03. Reality
04. (new song)
05. Desecrate
06. Labyrinth
Session A
07. Light to Die
08. What's
09. Nowhere
10. puppet
11. Cray Life
12. 5885/0
13. Life Is Not Fair (acoustic ver.)
14. Fight Out (acoustic ver.)
Session B
15. A~La~Z
16. ill-treat
17. Shit Now
18. Free Fate
19. Endless Line
20. Alien Blood
21. Sixoneight
Encore
22. Chain


HPP at Shibuya Club Quattro on 4th Feb

SETLIST
01. SE
02. Hang Veil
03. Reality
04. (new song)
05. Desecrate
06. Labyrinth
Session A
07. Light to Die
08. What's
09. Nowhere
10. puppet
11. Cray Life
12. 5885/0
13. Life Is Not Fair (acoustic ver.)
14. Fight Out (acoustic ver.)
Session B
15. A~La~Z
16. ill-treat
17. Shit Now
18. Free Fate
Session C
19. f's
20. Endless Line
21. Alien Blood
22. Sixoneight
Encore
23. Snares
24. Chain




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2011-02-03

KANDINSKY & Der Blaue Reiter

  

今日はね、三菱一号館に「カンディンスキーと青騎士」展を見に行ったんだ。

ヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944)はいちばん好きな画家のひとりだからね、
これで行かなかったら「好き」なんて言う資格を剥奪されても文句は言えないやね。

その上、これはかの「青騎士」展でもあるんだから、
すなわちフランツ・マルク(1880-1916)がもれなくついてくる、ってことでもあって、
ただでさえ好きな動物画の、その最高峰がオマケだなんてゆう贅沢な企画なんだよ。


実は2006年に小規模な「青騎士」展が開かれていたんだけど、どれくらいのひとが気づいたのかな?

ホテル・ニューオータニのなかにある美術館で、ほんの「さわり」だけ展示されたのを、
もちろんぼくは見に行っていて、美術館て言うよりか上品な「箱」にすぎない空間ではあるその箱で、
カンディンスキー、マルク、クレー、ミュンターに大いに魅せられたことをいまでもよく覚えているよ。


カンディンスキーみたいな大作家について、ぼくみたいな怪しい輩がどうこう言っても何にもならない。
だから、経歴その他が知りたい人はWikiにでも行ってくれ。知識の占有はかくして21世紀に崩壊したわけだ。

ぼくは単に、ああ素晴らしい、来てよかった、やっぱ好きだぁこうゆうの、てことしか言うつもりないよ。
でもそれじゃあなんだか馬鹿らしいってゆうか、言うだけムダってゆうか、「だからどうした?」っつうか。

だから、そこそこにはまとまったのが書けたらいいなぁ、と思いながら止まらないようにキーを打ってるの。



でだ、場所は丸の内の三菱一号館。「日本初のオフィスビル」なんて触れ込みがあるよ。1894(明治27)年竣工。
去年、竣工当時の旧一号館を忠実に再現したことで取り上げられてたし、CMにもなってたから知ってるはず。
赤レンガのアレだよ、いや見せたほうが早いか。



内装も当時の造りを再現しているそうで、板張りの床に関する注意書きが入り口にあったのが印象的だったなぁ。
曰く、当時の板張りを再現しているから靴で踏むとコツコツ鳴るので鳴らしすぎるなよ、てなことが書かれてた。
じっさい、けっこうコツコツしてたんだコレが。うるせぇ~っ!ってほどコッツコツしてるひともいて閉口したけど。


いきなり大御所レンバッハ(ビスマルクの肖像画描いたひと)から始まって、
こいつらへのカウンターで始まったんだぞ、ってわざわざ教えてくれるのが親切。

その次から本番。
カンディンスキーとミュンターの不倫旅行が「青騎士」の原点、てのがなんちゅうかこう、業を感じるけど、
個人的に1900年代の「青騎士」直前までのカンディンスキーは強力にロシア臭を放っているとこが凄い好きで、
まあそのほとんど全時代の作品が好きではあるのだけど、この頃はシャガールの描くロシアに通じるような、
どこか童話じみた郷愁や牧歌的なあたたかさが感じられるんだよね。




この時代のカンディンスキーはちょっと点描っぽい彩色方法をとっていて、今回も2~3枚見れてうれしかった。
『《日曜日》のためのスケッチ』(1904)『花嫁』(1903)なんてうっとりしてしまったなぁ。
ペインティングナイフで左官よろしく塗っているのだけど、ちょっとやってみたくなった。


ついで、旅行から帰ってきたふたりが落ち着いたムルナウの町へ。
カンディンスキー独特の「黄色」がもうどうしたって好きなんだと、わかりきっていたとはいえ改めて悟ったよ。
なんでか知らないけど、あの「黄色」を見ると幸せな気分になってるんだよね、いつもいつも。
まだ抽象画へ入りかかったころの作品群で、その「黄色」は抽象画になっても威力は十分あるけど、
ムルナウの穏やかで牧歌的な風景のなかにあると、そのあたたかみが最大限発揮されるように思うんだ。
別の言い方をすると、ムルナウ時代の絵って「かわいい」んだよ、絵本みたいってゆうかさ。





さて、とうとう「青騎士(Der Blaue Reiter = The Blue Rider)」の登場だ。(詳しくはWikiでいいでしょ)

ミュンターの描いたヤウレンスキーの肖像、


ヤウレンスキーの風景画、


マッケの都市景観など、



グループのメンバーも素晴らしい仕事をしていているけど、やはりマルクは際立っていたよ。

なんといっても、あの比類なき『虎』(1912)の迫力!
その瞳以外は直線だけで構成されたキュビスム的な作品なのに、虎以外の何者でもないんだよね。



『牛、黄-赤-緑』の黄牝牛・赤仔牛・緑牡牛のアンサンブルもまた素晴らしいのだな~ホントに。
『虎』より一年古い作品で、こちらは曲線だけで構成されているとこが対照的でおもしろかった。




マルクは一次大戦で若くして亡くなってしまったのだけど、まったく惜しいひとを失くしたもんだよ。


それでもやっぱり、今回の目玉、カンディンスキー『印象III』(1911)が凄かったなぁ~。
たいていのひとは「なにが?」って言うかもしれない抽象画なんだけど、見た瞬間に引き込まれちゃった。
抽象画が本格的に始まったというだけでなく、ムルナウ時代の幸せな「黄色」から離れ、
色がある種の「力」を発散するようになるという、そのきっかけとなった重要な作品。




絵の前に仁王立ちして、随分長いこと眺めていたよ。部屋を出ても、すぐまた戻ってきたし。



結局、いつものように二周半見て歩いて、ああえがったえがったと呟きつつ帰宅しましたとさ。