2012-04-07

猿でもわかる「iTunes USで買い物をする方法」



つい先日、iTunes USにてHEAD PHONES PRESIDENTのNew Singleが発売されました。

わたしはとてもアルバム発売の6月6日までは待つことなどできず、
一刻もはやく新曲が聴きたかったので、iTunes USにてさっさと買うことにしたのでした。


件の新曲の圧倒的な素晴らしさについては、まだくどくどと言いません。

他の方にも、すぐにでも聴いてもらいたいと思ったので、
「わたしは如何にしてiTunes USにて新シングルを購入したのか?」
その方法について、紙芝居のようにわかりやすく説明してみようと、
この「猿でもわかる《iTunes USで買い物をする方法》」を書くに至ったのです。


さて、USアカウントの取り方は、多くの方がブログなどで紹介されています。
(たとえば、ここなどがわかりやすいと思います。)

が、無料アプリが欲しいわけではないので、あちらで買い物をするために、
iTunes USのギフトカードが必要となりますから、先にそれを購入しなければなりません。

わたしの場合、ここで15ドルのカードを購入いたしました。
http://www.airplanemusic.jp/itunes/

正直にいって、昨今の超円高基準からすると、レート換算的に損した気分になります。
でもまあいいや、とそこは目をつむって、さっさと購入しました。

ちなみに、わたしは音楽に関しては現物=CD至上主義者なので安い15ドルにしましたが、
普段からDLで済ませている方は、高いもののほうがお得だと思われます。
ざっと見た限り、あちらのほうが1曲あたりのお値段がかなり安いようですから。

さて、上記サイトでカードを購入すると、メールで16ケタのピンナンバーが送られてきます。

なお、gmailが不調だったのか、あちらのサーバーがどうかしてたのか、
この返信がけっこう時間がかかって、かなりやきもきしました。
そんなわけなんで、返信が来なくても鷹揚にかまえてお待ちください。


あとはもう、iTunes USのアカウントを作り、われらがHPPの新シングルを購入するだけです。

以下に、キャプチャで取り込んだものを貼りつつ、ご説明いたします。


①iTunesを開き、左にある「iTunes Store」をクリック。
いちばん下までスクロールして「国を選択する」をクリックします。



②アメリカを選びます。



③画面右上のボックスで「HEAD PHONES PRESIDENT」を検索します。
もちろん、検索ワードは「Purge The World」でもかまいません。



④結果が表示されます。お目当ての新シングルをクリックします。



⑤「Buy Album」をクリックします。もちろん、ひとつ前の画面からでもできます。



⑥すると、こんな表示が出てきます。ここから、アカウント作りとなります。
なので、さっさと「新規アカウントの作成」をクリックします。



⑦「continue」を選び、同意書のサインボックスをチェックして次へ。
(キャプチャを取るの、忘れてたので画像はなしです。必要もないでしょうけど)

⑧USアカウントのIDを作ります。以下、注意点です。

・メールアドレスは、iTunes JPと違うものにする。
・パスワードは「大文字と数字を含む8字以上の文字列」にしてください。
・「Security Question」はみっつ登録します。テキトーでいいです。わたしは1文字にしたほどです。
・「Rescue Email Address」は、IDのそれとは別のものにしてください。
・誕生日は、何でもよさそうです。いちおう、自分のものにしましたが。



⑨ラストです。これさえ通過できれば、あとは新シングルです!

・クレジットカードはスルーします。これはUSのものなので、日本のは使えません。
・「To redeem」のボックスに、16ケタのコードを入力します。コピペはできないので、間違えないように。
・名前を登録します。テキトーでかまわないでしょう。自分の名前にしましたが。
・住所を登録します。少し、詳しく説明しましょう。
-ここで重要なのは、Zip code(郵便番号に該当)です。実在するものが必要かと思われます。
-たいていのZipはxxxxx-xxxxで、5ケタ+4ケタです。古い住所は5ケタなので、それでも大丈夫。
-で、あっちの住所なんか知らないよ、と思われるでしょう。わたしはこうしました。
-住所と電話番号がすぐに出てくるところと言えば、ホテルです。よって、ニューヨークのホテルを検索しました。
-期待通りでした。「Street」に番地を、「bldg」にホテル名を、「City」にNew Yorkと入れました。
-「State」ボックスから州を選びます。ニューヨーク市なのでニューヨーク州「NY」です。
(州の略字がわからないとあれなので、有名な州にしましょう。LAとかTXとか。)
-Zipを入力します。わたしの場合、5ケタでした。
-電話番号を入力します。xxx-xxx-xxxxとある番号の、アタマ3ケタが「Area code」です。
・「Create Apple ID」をクリックします。あとは勝手にDLしてくれます。




以上です。

あとは新曲をお楽しみください。わたしはすでに20周くらいしておりますです。
スケールが格段に増した曲を聴いて、あまりのかっこよさに思わず笑ってしまい、
そして涙ぐんでしまったほどです…。


あ、そうそう、これで13.02ドルほどあまりました。
サントラ収録曲とか、入手が難しいレア盤などを探しております。

いまのところ、ジョアンヌ・ホッグ(Joanne HOGG)ものを見つけたり、
『ストリート・オブ・ファイヤー』の"Nowhere Fast"はアルバム・オンリーだとガッカリしたり、
といった感じです。

こうして探すのも案外なかなか楽しいもので、
こうしたオマケさえあるのですから、さっさと『Purge The World』を買ってしまいましょう。






-追記-

そうそう、書いておくのを忘れていました。

わたし自身、DLしてから気づいたのですけど、iTunes USでは、どうゆうわけかHPPの表記が違うんです。
HEAD PHONES PRESIDENTが、HEAD PHONE PRESIDENTになってるんですね。

わかりましたか?そう、PHONESがPHONEになってるんです。Sが抜けてます。

うーん、これでいいのだろうか…。いいわけないですよね。
US本国に連絡したら、すぐになおしてくれるのかな?

あ、Headphones Presidentてのもあったな。スペースがない、という・・・。

もっとも、この間違いはたまにライブハウスもやってたりするし、
HPP自身、WhitErRor (2005)のジャケだけはその表記にしているのですが。

ただ、アメリカはいまや完全にダウンロード社会となってますから、
わたしとしては、表記は正しいもので統一してほしいな、と思いました。


-さらに追記-

4月22日(日)深夜、表記が正されているのが確認されました。よかったよかった。

これを記念して、「お金が足りなくなったらどうするの?」という質問に答えておきましょう。

買い物をしたはいいものの、案外あっと言う間に残りのドルがなくなってしまった、
というときは、やはり同じように、もう一度ギフトカードを購入し、ピンナンバーを入手します。

それで、ストアの右側にあるメニューバーの「Redeem」をクリックします。



あとは、16ケタのピンナンバーを入力すれば、その分だけ課金されます。かんたんですね。




個人的にはCDの方がありがたいのだけど、DL限定作品もあるので、大いに活用してます。

今のところ、オススメはDEFTONESのチノ・モレノの別働隊†††(Crossesと読む)でしょうか。
EPを2枚リリースしていて、これはCD化される気配がいまのところありません。




いずれもニューウェーヴに由来するゴス感覚を、21世紀的なエレクトロニカとヘヴィネスで聴かせる、
一筋縄ではいかない深遠な音楽となっておりました。どちらも18分くらいです。

それと、ヴァン・ダイク・パークスのシングル連作もいまはここでしか聴けません。
もっとも、EPレコードではリリースされているのですが…。わたしにはハードルが高くて…。

ただ、これはいつか必ずCD化されるだろうと、待つことに決めたのでしたが。


ここを見てくれたみなさまがよき買い物をなされるといいな、と思っておりますです。


2012-04-04

HEAD PHONES PRESIDENT 'Preview live' at Marz on 31st Mar


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去る土曜、HEAD PHONES PRESIDENT(以下HPP)は「Preview Live」と題されたライブを行った。

タイトル通り、来るべき新作の「予告」と新PVの「試写」を兼ねたライブだったのだが、
それと同時に、2012年現在のHPPというバンドの、言わば「見本市」としてのライブ、
という側面もあったようにわたしには思われた。以下に、その内訳を詳述したい。


ただし、先に断わっておきたいのは、これは所謂「ライブレポ」ではないということだ。

もっとも、これまでわたしが書いてきたものも、大抵のブロガーが書くようなそれとは異質で、
大部になったり、感想よりも考察が多かったりと、甚だ読みにくいものではあったのだった。

それを、今回は更に推し進めた。というより、そうせざるを得なかった。

元より、ライブを再構成/追体験するようなものを書く気はあまりなく、
それ以上に、自分が感じ、考えたことをすぐにでも放り出していくこと、
また、テキストとしての整合性よりも、そうした自分の考えというガラクタの集積が、
なんらかのヴィジョンを提示するのではないか、ということへの賭けにも似た期待、
そちらの方が、今は書くに当たってモチベーションとなっているため、なのだった。


眼前に繰り広げられるパフォーマンスに触れながらわたしが思い、感じ、考えたこと、
自然と想起された記憶への瞬間的/間欠泉的な遡行が織りなした、過去と現在の綾、
その織物に浮かんだように思えた、彼らの近未来をも包含するヴィジョン。

これはわたしの内部に展開されたものの外部化であって、客観的な叙述とはやや異なる。

わたしが書こうとしているものはそうゆうものだから、
ライブの模様が知りたいだけなら読まなくていいと思う。


なお、今回は敬称略とした。そうしなければ書けなかった、とも言うか。
このブログに慣れている方は違和感を持たれるかもしれないが、ご諒承を。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



スクリーンに新たなPVが映し出された。タイトルはまだわからないながらも、それが名古屋における初演から漸進的に進化してきた、わたしが「新曲2」と呼んできた曲であることは一瞬でわかった。画面左手上方から右手下方にかけて、はっきりと地層が見てとれる赤みがかった崖がその威容を誇り、抜けるような雲ひとつない青空と、その空よりもさらに青い海とのコントラストの狭間、やや窪んだ岩棚の上に、いくつかの黒い塊が見てとれた。HPPである。クレーン撮影による中空からの大掛かりなパンがバンドを捉え、矢継ぎ早に各メンバーの演奏するショットが挟みこまれ、ふたたびクレーンからの全体を映すショットに切り換わると、そこにはくるくると軽快にまわるAnzaの姿があった。まるく拡がるスカートの裾は花を思わせた。聞こえてくる音像のなかには、すでに何度か観て/聴いて馴染みになったリフとは別に、キーボード乃至ギターシンセによる装飾音が曲に新たな彩りと膨らみをもたせていた。そして、Anzaが歌いだす。

わたしは、この冒頭のわずか数秒だけで、優に感動し切ってしまったのだった。

細かくリアレンジされ、格段にそのスケールを増した曲に聴き入りながらも、新生HPPを象徴するに相応しい映像に釘づけにされたのだ。曲が2番になると、突然「扉」が現れる。木製のいかにも頑丈そうな扉は、どこかスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に登場する、あのミステリアスでどこか不穏な雰囲気さえ湛えた漆黒のモノリスを思わせた。各メンバーがその扉と一対一で対峙するショットが挟みこまれると、その扉はかつてのPV群における「ふたりのAnza」と相似形のものに思え、物体としての扉は突如としてメンバーのアルターエゴを象徴/表象する、新たなダブル(分身)の化身として見えてくるのだった。しかし、辺りに夕闇が訪れると同時に、その扉が紅い炎をあげてその身を一層際立たせると、何かが大きく変わったように思われた。対していたはずのHPPは、燃える扉の周りで演奏をつづけるも先ほどの一対一の対峙とは印象が異なり、扉は打ち砕くべき対象と言うよりはむしろ共闘すべき何者かであるような相貌さえ見せはじめ、両者は炎を介してひとつとなるのだった。

この新PVが提示した世界を、わたしはそのように受け止めた。
そして、その世界が提示/内包する広大さに、ある感慨を覚えたのである。


HPPはむしろ、そうした広大な世界観とは無縁のバンドではなかったか。

それを内に潜在的に秘めていたとしても、その表出はとても内向(内攻)的で、
身を削り自らを傷つけているかのようにも見えた苛烈なパフォーマンスを前に、
わたしたちオーディエンスは蛇に睨まれた蛙よろしく縮こまっていたではないか。

ステージ上の彼らはどこか「閉じて」いて、それが魅力でもあったのだが、理解者は多くなかった。

狭いライブハウスで繰り広げられていた、そうしたパフォーマンスを象徴するかのように、
その時期のライブを収めたDVDはToy's Box (2006)、Paralysed Box (2008)というタイトルで、
ライブハウス≒密室≒箱というアナロジーによってバンド自身の密室性を奇しくも表していた。

そう、ある時期までの彼らは、ステージを「密室」としていたのかもしれない。
そして、われわれはその透明な箱/檻を、ただ眺めるしか為すすべはなかった。


試みに、最初のPVとなった"Corroded"の映像を見てみるといい。
Anzaは透明な「箱」に閉じ込められていて、遂には出られずに果てる。

ほかのPVにも同様の傾向があり、その類似性/一貫性/共通項は容易に指摘できる。
演奏場所は黒や白一色の抽象的な空間だったり、坑道や廃墟のような閉鎖空間だったりする。
"Groan And Smile"においては、灰色の空が出口のない世界を塞ぐ天井にさえ見えるほどだ。

この「密室」はなにも、PVの演出法や撮影場所のために生じた先入見に由来するのではない。
わたしはこの言葉が、ある時期までのHPPを表すに適当なものと思えてならないのである。
というのも、当のHPPが意識的無意識的とを問わず、そうした表現を選んでいるからだ。

HPPは、細心の注意をはらってPVを制作している。少なくとも、わたしにはそう思える。

楽曲が表し、かつその内に抱えた世界観をいかに映像化するか、慎重に考えていなければ、
各楽曲のイメージを壊さないどころか、それを増幅するかのような映像にはなっていないだろう。

だからこそ、少なくとも2007年くらいまでのHPPはその精神的/象徴的なトポス(場所)を密室的な閉鎖空間に置いていたと、ひとまずは言い切ってしまっていいように思える。そうでなければ、ああした「暗い映像になる楽曲」をPVにはしなかっただろう。もっとも、当時は「暗い映像にはならない楽曲」というものを、まだ持ち合わせてはいなかったのだが。


それが、そんな閉鎖空間にもいつしか光が差し込むようになっていた。光をもたらしたのは間違いなく、"Light to Die"という楽曲の誕生と、そのライブ・パフォーマンスにおいて、であった。2008年のLOUD PARK 08という特大の「密室」におけるステージにおいて、複数のスポットライトが作りだした紡錘状の光の集中に白く霞んだAnzaを目にして卒然と悟ったのは、HPPが本来いるべき場所はあの狭苦しい密室などではなく、垂直性の光が映える広い空間であるということだった。彼らが内に孕んでいるスケール感は、わたしの想像力では及びもつかぬほどの射程を備えているのではないか、そうも思ったのだった。

LP08以後のパフォーマンス/オーディエンスの変化は、古参のファンならだれしもよく覚えているはずだ。あれから、バンドは徐々に変わっていった。"Nowhere"のPVにおける空間は、もうそれを密室と呼ぶのは躊躇われるような広さと明るさを持っていた。ライブにおいても、その内向性は若干の位相の変化を段階的に踏みつつも、かつてのようなステージ上の密室性からは遠ざかり、オーディエンスとの交感が増えていった。そして、Pobl Lliw (2010)のアーティスト写真が緑の深い渓谷で撮影されたことは、わたしには何より象徴的な出来事に思えたのだった。もうHPPは、自閉的な密室に留まっていられるようなバンドではなかったのである。

だから、新PVの撮影が屋外でなされているとブログやツイッターで知ったとき、それは理の必然であると思ったし、その楽曲のスケール感に見合った映像になるだろうと予想したのだ。それを、期待を上回るかたちで見せつけられたことがこの上なくうれしく、また、HPPと共にしたこの数年間が一瞬のうちに凝縮されるような思いがして、なんとも言えない感慨を抱いたのだった。


新PVの上映が終わると、場内からは盛大な拍手があがった。当然の反応だった。
白い幕が上がり、暗幕が袖に消えると、ステージにはすでにメンバーがスタンバイしていた。

つい先ほど見たばかりのPVとほぼ同じサウンドの、硬質ながらもザラザラした質感のリフが掻き鳴らされ、大阪が初演となった「新曲3」と都合上呼んでいる曲が始まった。これは前回のブログで書いたような「気味の悪い」曲なのだが、PVから受けた印象を引き摺っていたためであろうか、どこか快活なものさえ感じ、戸惑いとも喜びともつかないものを覚えた。依然として「気味の悪さ」はあるものの、弾むような感触が加味された気がしたのだ。いずれにせよ、以前だったらこの曲で幕を明けることに抵抗を覚えたはずなのに、そういった違和感がなかったことから、何か微妙な修正が施されたのかもしれないとも思った。そうでなかったら、やはり先ほどの喜びが持続していたことの、心理的証左でもあろう。


これに、"Nowhere""Desecrate""Labyrinth"という定番がつづいた。"Labyrinth"に至っては、おそらくこの4年数ヶ月にわたってライブ序盤から一度も外されたためしすらない一曲である。それゆえに、この流れは一端ここで封印されるのではないか、とも思った。HPPがその密室の壁を叩き出し始め、少しずつ刻みこんでいった亀裂からその四壁を壊すに至ったのは、まさにこれらの曲によって、なのだった。めずらしく、いや、今後はこれが常態となるのだろうが、Anzaはときに笑みを浮かべながら歌い、そこにかつてのライブとの決定的な差を思わずにいられなかった。今となっては笑い話のように聞こえるかもしれないが、いつだったか、ライブ終演直後にAnzaが「ありがとうございました」と小声で言ったときの、わたしたちオーディエンスが受けた衝撃はかなりのものだったのである。客電が点いたとき、動揺にも似た表情を浮かべたひとを何人か見かけたが、自分もそんな顔をしていたに違いない。それほどまでに、ステージ上とこちら側は画然と隔たっていた。そこにはいかなるコミュニケーションもなく、それが「舞台のよう」「映画を見ているみたい」とも形容された所以の一端でもあったのだから。


HPP初期のテーマ曲とも言える、"Life Is Not Fair"がつづいた。久々の登場だ。アコースティック・ヴァージョンは昨年のワンマン・ツアーでもやっていたが、オリジナルのそれは、2010年9月11日の名古屋公演が、おそらく最後ではないだろうか。(九州/福井/台湾でやっていない限り、ではあるが)いずれにせよ、東京では2009年10月23日のワンマン公演以来の演奏となった。Anzaはステージ中央で直立不動のまま歌い、その大きな目は虚空を睨んだまま動かない。その異様な姿はかつてのパフォーマンスの残響のようでいて、しかし違う。と言うのは、これが数ある表現/表情のひとつであって、ただひとつのそれではないのだと、今ではだれもが了解しているからだ。

言うなれば、彼らは使える色彩を増やしたのである。モノトーンに沈みがちだった世界に――それはそれで、シルヴァープリントのモノクロ映画のようなシャープな美しさがあったのだが――少しずつ色味がついてきた。そして今は、そこに豊かな階調を加えようとしている、その真っ只中なのだった。曲が後半部で激しくなると、一気にその躍動感は増す。いや、躍動感などという言葉では生ぬるいだろう。動物的とさえ言いたくなるほどの衝動性を感じぬ者が、果たしてあの場にいたかどうか。ああした衝動性が、数多くのロックバンドと異なる発露を迎えるのはなぜか、幾度となく自問したその問いをまたもわたしは反芻していた。

曲はそのまま、id (2002)の曲順通りに"What's""Too Scared"とつづいたのだが、後者には驚かされた。2007年6月23日のワンマン公演以来ではなかろうか。そう言えば、あのときも会場はMarzだった。近いようで遠く感じる年月日だ。現編成になってからというもの、毎回のように「メタルではなくヘヴィ・ロック」という認識を――その一方で、リフの尖り方はどんどんメタリックになっているのだが――深めていて、とくに2002年までの初期の曲をプレイするときは、楽曲の特質といまのバンドサウンドとがしっくりくるように思える。ただ、冒頭のPVに見られたスケール感や深み/膨らみは、やはり最近の、いや「これからの」曲でなければ得られないのだろう、とも思ったのだったが、この時代の比較的シンプルな(ただし、並みのバンドからしたら十二分にヒネリの利いた)楽曲だからこその直接性は、いまでも(そしてこれからも)十分に楽しめるものである。


時代順、ということなのだろうか、de ja dub (2004)の2曲がつづく。いつものように、"ill-treat"は始まるその前からしてすでに絶望的なまでに哀しい。Hiroが紡ぐ繊細な音に合わせて、Anzaは明るい表情をある時点を境に曇らせ、あとはひたすら「落ちて」いく。泣き出しそうな顔から表情を失った顔へ、そしてヘヴィなリフが炸裂するころには哀しみが怒りへと転じ、まるで復讐劇の火蓋が切って落とされたかのようなただならぬ気配を色濃くしながら、曲は茫然自失の終局へと展開していく。前回まではNarumiがベースでそのエンディングを繰り延べていたが、今回はBatchのドラミングがその代役を果たした。タムやシンバルを繊細かつ巧みに操るその様は、打楽器による囁きに他ならなかった。

これにつづくは"Corroded"、そう、あの「透明な箱」の"Corroded"だ。思うに、2004年~2005年のHPPがいちばん密室性が高かったのではないだろうか。この時期の曲には、一種独特な磁場があると思えてならない。なんとも言い知れない「忌まわしさ」が、言うなれば、「鬼」が憑いていはしまいか。そして、その鬼にはなぜだか美しさが感じられないだろうか。こうも胸中に「厭なもの」を掻き立てる、忌まわしい存在だというのに。

こうしたある種の「忌まわしさ」がロックの言語となって久しい。あの90年代に活躍した一連のバンド群、とくにALICE IN CHAINS、NINE INCH NAILS、TOOL、KORN、DEFTONESといった主要バンドたちが、捩れた美意識と意外にも汎用性のあった方法論でもってロックにもたらしたこの文法は、同様の、しかし別種の文脈を備えていたここ日本において、究極にまで推し進められた感がある。日本には、ハイカルチャー/サブカルチャーの区分なしに、仄暗く陰湿な文化的水脈が長い年月をかけて流れているが、それとアメリカ社会における「忌まわしさ」を表現したロックが合流した、その水辺に咲いた徒花として、即座にJURASSIC JADEが思い浮かぶ。(ただ、彼らが内包する文脈はもっと複雑なので、この文脈における選出は必ずしも適切ではない。)HPPの音源を初めて聴いたときにそんな模式図を脳裏に描いたことを、ふと思い出した。


Anzaが去り、Hiroがアコースティック・セットの準備をしている間を、NarumiとBatchがつないだ。そこにHiroが加わり、短いセッションとなる。見なれた光景のようでいて毎回まったく違う音運びになるため、いつも新鮮な気持でその瞬間瞬間を注視/傾聴することとなる。着替えをすませたAnzaが戻り――前半は、白スカート(前の方は短くなっている)、黒キャミの上に黒い薄いレース状のケープ(ところどころカットしてあって、胸には大きな赤いクロスがあるもの)というもので、後半は、新PVとおそらく同様の黒スカート(金糸などの装飾あり/やはり前が短く後ろが長い)、黒パーカー(無地のもの)――"Inside"のアコースティック・ヴァージョンが始まった。『Pobl Lliw』というアルバム自体にも言えることだが、Narumiのベースがアコースティック・セットの中心を貫く背骨となっていて、このときも音の存在感が際立っていた。そのサウンドはとても心地よいもので、原曲においてはベースがもっとも曲の不穏さを増幅していることとはまるで対照的である。

昨年、『DELIRIUM』に収録された"Crumbled"のアコースティック・ヴァージョンを初めて観た/聴いたのは、2010年10月22日のアコースティック・ライブのときだった。とりわけ印象的だった口笛を今回は聴くことができなかったが、原曲から「忌まわしさ」をすべて取っ払ったこのヴァージョンは、曲に込められた思いを切々と伝えてくるだけに胸が詰まる。逆に言うと、かつてはこの思いを表現するのに「忌まわしさ」のフィルターが必要だった、ということなのだろうか。

曲が終わるとすぐさまギターが用意される。HiroがVシェイプのギターを持っているところを観るのは、これが初めてだ。(2010年9月のツアーで、Marが弾いていたフライングVを思い出したひとも多かっただろう。)掻き鳴らされる音が、どの曲に向かっているのかを告げる。冒頭で上映されたPVの、あの曲だ。これまで通り「新曲2」としておこう。初演のときから格段に進歩したように思われたのは、あのPVを観たあとだったからではあるまい。リフにしろサビの歌メロにしろ、さほど大きな変化はないのだが、こちらを柔らかく包み込む「なにか」が加わったのだ。初演のときはもっと「鋭い」印象があった。鋭角的に突き刺してくるものから、柔らかく覆いかぶさってくるものへ、というイメージへと変化したのである。そして、しなやかな力強さがある。祈りと生活がイコールとなっている者のみが持ち得る、あの清廉な力強さを感じるのだった。


Anzaが笑顔でMCをとる。新曲をやる、と。2曲つづけて演奏されたこの新曲を、都合上「新曲4」「新曲5」と呼ぶ。前者はソリッドでタフなリフ、突き抜けるようなサビの歌唱/その直後の歪ませた声、随所に見られた複雑なアレンジが印象的だった。これまでは、音の粒子を撒き散らすようなリフが多かったと思うのだが、この曲ではその粒子を圧縮してタイトに吐き出しているという印象を持ったのである。より構造化された、とでも言うか。ユニゾンで演奏する部分も多々あり、緩急のやたら激しいヴォーカルを含め、かなり難易度の高い曲だと思う。

つづく後者は、前半はヴォーカルとベースの静謐なパート、ギターとドラムが徐々に合流し、最終的には激しいパートに至るのだが、思いを洗い浚いぶちまけていたこれまでの楽曲とはやや異なっていた。どう違うのか、うまく言葉にできなくてもどかしい。2曲とも、いやこれは新曲すべてに言えることだが、これまでなら飛散/拡散していたものが収束/凝縮されたことで、却ってその世界観の拡がりを獲得している、というのが大雑把なわたしの感想で、一言でまとめると「タイトになった」のだ。付け加えると、ギターがえらい「動き」を見せていた。あの場にいたギタリスト諸氏はどう思ったのだろうか。

ほとんど唐突に、新曲から"Reality"に接続された。初めてこの曲を聴いたとき、リフの刻みっぷりに度肝を抜かれたものだが、ツインギターの片割れがいなくなってもその威力を減ずることがないのが素晴らしい。昨年2月4日のクアトロでのライブでは、Narumiがステージから身を乗り出してきたことが脳裏をよぎる。同時に、この曲を十全なかたちで観ることのできた唯一の機会である、2009年のワンマン公演のことも。


Anzaが「Are you happy?」と声をかける。この言葉には、思うところがたくさんある。2010年9月を思い出さないわけにはいかない。この言葉の内実が日に日に変わり、虚ろな言葉にあたたかな思いが充填されていった、あの数日間を。そしてまた、天を指さしながら「Frends...heaven」との言葉に、やはり2010年の8月を、またAnzaやHPPのまわりから「天」へと旅立ってしまった人たちのことを思わずにいられなかった。曲はもちろん"Light to Die"であり、Narumiのベースから始まる。

はじめは、妙なタイトルだと思ったものだ。「死すべき光」とは如何に?と。しかし、それは誤りだった。これは不定詞ではなく、Dieは動詞ですらない。このDieという単語はあらゆる死を象徴した音節にすぎず、文法や通常の用法など意味を成さないのである。ここにあるのは、あらゆる死に等しく降りそそぐ光、というヴィジョンであり、かつ、あらゆる死が天上の光へと向かって昇っていく、というヴィジョンなのだ。この垂直性が密室の天井を貫き、ひいてはその四壁を倒壊させるに至らしめたことはすでに述べた。そして、このとき悟ったのだ。新PVの扉は、かつてそこに密室があったことをまさに象徴しているではないか、と。あれは閉鎖空間の残骸そのものだったのではないか、と。しかしその扉も、燃えていつかは灰となる。これからのHPPは、水平上にその世界を広げていくのだ。あの赤みがかった、崖の上から。


近い将来へと思いを馳せていると、久しぶりに聞いた一節に否が応でも目を見開かせられた。「Savage in my heart...」とくれば、それは"I will Stay"である。2008年ごろまで、ライブの締め括りに鎮座していたHPP中期のテーマ曲だ。演奏されたのは、2010年9月の大阪・名古屋公演が最後だった。そのときでさえ、久しぶりという感慨がすでにあった。東京では2009年7月8日が最後だから、かなり間を空けたことになる。もちろん、現編成ではこれが初めてだ。わたしはもうやらない曲だとばかり思っていた。というのは、この曲と脱退したMarとの記憶における結びつきは不可分であり、彼との因縁が深い曲はやらないというより「できない」だろうと常々思っていたからだ。(演奏上不可能、という曲も当然あるだろう。)心理的な抵抗感だけでなく、記憶からくる「痛み」が伴うことへの恐れが予想できた。HPPのメンバーは、とても繊細なひとたちだから。またそれは同時に、Marをよく知るオーディエンス側にもあっただろう。わたしには、少なからずあった。だから、曲が始まったときに射抜かれるような驚きと微かな痛みを覚えたのだった。

新作の発表を控えたいま、あらためて過去を振り返ってみると、わたしにはVary (2003)だけが浮いているように思える。それは、この作品で多用されたアジアン・テイストの旋律やアレンジに因るところも大きいのだろうが、前後の脈絡とは別にあれ一作で完結している気がするのである。それ以前や以後の作品との連続性なり連関性なりがあることは当然のことであって、それとは異なった意味での「完結」なのだが、これまたうまく言葉にならない。コンセプトアルバムというわけでもないのに、受ける印象はそれとほとんど同じと言うか。そして、その仮構されたコンセプト――これを作品の魂と呼んでもいい――と、Marの存在とが深く結びついている、というのがわたしが長年抱いているこの作品のイメージなのだ。そこには、当時のHPPのアジアン・テイストのファッションから流れ込んできたイメージというものもあるし(物販に敷かれている布はあの時代の名残りだ)、何度も観た五人編成HPPのパフォーマンスにおけるMarの存在感、というものも混在していることくらい、わたしは百も承知している。書き出せばきりがない。

四人編成となったHPPが『Vary』時代の曲をやる意義は大きく、とくに"I will Stay"に関しては殊更それが大きいと思う。ステージを観ながら、Marのパフォーマンスをそこに観ていた頃へと意識が向かっていた。ときにAnza以上に曲にのめり込み、ステージから降りたまま終演を迎えることもあったMarが、ふらふらと立ち上がる姿が思い出された。しかし、彼はもうバンドを去ってしまって久しい。その姿がもっとも強く焼きついているこの曲を現編成でやったいま、彼は完全に過去のメンバーとなった気がした。現HPPにとって、これは超えねばならない試練であったかもしれない。もしくは、この曲こそが残された「扉」だったのだろうか?


沈黙が訪れると、チリーン、と音が聞こえてくる。"Sixoneight"だ。前半は亡きものへ向けられた慈しみの曲であり、後半は生けるものを亡きものにした「なにか」への昂然たる憤怒の曲となる。その前半部で、Anzaはわたしの手を取った。申し訳ないような、誇らしいような気持ちはすぐに失せ、グッと握る力が込められたその掌に意識を集中させた。いつか観たライブの光景が甦った。遠くも近くもある、記憶の遠近法。

初演から今日に至るまで、何回観ただろう。(初演の模様は『Paralysed Box』に収められている。)その後、曲は威力と深度を増しながら成長した。それがいつからか、崩れてきた。いや、崩れたのではなく、意図的に壊したのか。激しい後半になると、もはやヴォーカルは既存のラインをなぞることはせず、思いを表現するのではなくその激しい思いそのものとなって、ひたすら声を荒げるだけとなったのだ。われわればかりか、当の楽曲そのものが、彼らのパフォーマンスにたじろいでいるのではないだろうか。それほどまでに思いをブーストさせてしまうなにかが、言うならばやはり「鬼」が、この曲にも憑いていると思えてならない。ただ、2004年~2005年期のそれと違うのは、どこまでも拡散していくかのようなスケール感が伴っていることだろう。たとえ飛散していくそれが、血飛沫のような剣呑なものであったとしても。(この拡散が収束へと向かっていることについては、すでに述べたから繰り返さない)巨大に膨張してゆく怒りがフッと消え、束の間の静寂へと至ると、留め金が外れたように全楽器が轟音をあげるフィナーレを迎え、メンバーが去った。


アンコールでは、Hiro、Narumi、Batchが即興的な演奏をみせてくれた。つづいてAnzaがほぼ私服と言えそうな軽装(RAZの黒パーカー、ストライプのタイトなチュニック、黒レギンス)で登場すると、新作が6月6日に発売されることや、近くに迫ったアメリカツアーのことを話してから、「リクエスト投票の1位でした」と"Chain"を紹介し、曲が始まった。ライブの場において、いつしかこの曲に自然と付与されていた幸福感とともに笑顔で楽しそうにプレイするHPPを観て、いつものようにわたしは確信するのだった。このバンドなら、どこに行ってもだれを前にしても、必ずや「目にモノみせてくれる」だろう、と。

そして、来るべき新作が早くも待ち切れずにいる自分を感じたのだった。



SET LIST
01. (new song 3)
02. Nowhere
03. Desecrate
04. Labyrinth
05. Life Is Not Fair
06. What's
07. Too Scared
08. ill-treat
09. Corroded
short session
10. Inside (Acoustic ver.)
11. Crumbled (Acoustic ver.)
12. (new song 2)
13. (new song 4)
14. (new song 5)
15. Reality
16. Light to Die
17. I will Stay
18. Sixoneight
Encore
19. Chain


6月6日が待ち遠しい・・・


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