2014-08-20

甲午葉月帰省日記: 花火、愛ノ旅


先週、帰省していた。

ノートPCを運ぶのが億劫で東京に置いたまま帰ったのだけど、書きたいことが多くて困ってしまった。Facebookの投稿もiPhoneでやるほかなく、そこそこの分量を書こうとしても、スマートフォンでは集中し切れなかった。

以下は、前半が8月11日(月)、後半が15日(金)にFacebookに投稿した文章。少し加筆した。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


8月11日(月) 花火


花火を見てきた。

地元の花火大会はもうかなり前から資金難で、花火の本数も随分と減り、時間も短縮され、往時の活気や華やかさはほとんど昔日の夢と化しつつある。

今夜も、自転車であちこちをふらふらしながら、道路わきや広い駐車場、田んぼの前や跨線橋の上などで花火見物をする人たちを見たけど、間遠に打ち上げられる花火の退屈さに耐えかねたこどもが「もう終わりでしょ?帰るでしょ?」と口にしていたほど、長閑な花火大会となっていた。


小学校にあがる前は、浴衣を着て近くのコンビニ(当時はまだサンチェーンで、後にローソンとなった)があるビルにまで出向き、そこの駐車場から花火を眺めた。いまでもその駐車場では、多くの家族が各自の領土を一時的に接収し、花火を見やっている。もっとも、その体が、視線が向けられる方角は大きく変わったのだが。



打ち上げ場所が変わったのは、何年前だったろう。むかしはもっと川の下流の方で打ち上げていた。花火が、思い描いていた方向よりずっと「左」に上がるのは-わたしが住む地域からすると、方角が北から北西へと遷移した-とても奇異な感じがしたものだったが、それも慣れてしまった。自転車をこぎながら、かつての祭りの風景が脳裏をかすめては去っていく。

家族で花火を観に行っていたころは、ちょうどバブル真っ只中だった。人通りは賑やかで、花火も経費のかかる豪華なものが多かった。中学生になってからは友人と観に出かけ、高校時代は見向きもしなかった。いや、花火のたびにパニックになるわが家の犬を、おもしろがっていたのだったか。


ここ数年の花火は、あきらかに迫力を欠いている。お金がないと言われたらもうそれまでとはいえ、これならもっと時間を短縮してどんどん打ちあげたらいいのにと思わずにいられないほど、次の花火をじれったく待つことすらある。もう花火は終わったと思ってしまったこどもが、手を引かれて帰りながら「あ、もっこ(もう一個)あった。もっこあったよ。もっこ」と後ろを振り返る姿がおかしかった。

それでも、最後の最後、矢継ぎ早に次々と打ち上げられる花火だけは、未だに華々しさを失わないでいた。それまで散発的に打ち上げられていた花火とは、高さが違う。自然、顔は上を向く。花火は見上げるものだったことを、ようやく思い出す。



その時ふと思ったのが、トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』だった。あの名高い(と同時に、あざといと非難されもする)ラストシーンだ。検閲でカットされたキスシーンを貼り合わせたフィルムを、映画監督となった初老の主人公が見るという、あの場面。次々と映し出されるキスシーン、あれは花火ではなかったか。リズムに勢いが生まれ、昂奮が昂奮によって連鎖的に高まっていく。生の喜びに溢れているのに、どうしようもなく哀しく、儚い。その喜びと哀しみを映し出すスクリーンを、主人公は見上げる。花火を見やるように。明滅する映像の光をうけるその様はやはり、花火に照らされたようにも見える。そのすべてが、途方もなく切ない。


ポルトガル語に「サウダージ」という言葉がある。郷愁や憧憬といった意味を持つ。今夜感じたあの感覚、あれがサウダージなのだろう。わたしが日本語にするとしたら、「切なさ」としたい。

違う場所、違う時に、違う花火を見たら、違う想いを抱くだろうか。
ただ、わたしにはこの地元の貧相な花火で十分そうだ。ここにわたしの記憶があるのだから。




8月15日(金) 愛ノ旅


アラーキーの写真展「荒木経惟 往生写集-愛ノ旅」を観てきました。



わたしは写真史にも写真批評にも疎いので、アラーキーこと荒木経惟が写真家としてどのような立ち位置の存在なのか、知りません。もっとも有名な写真家のひとりであり、特異な容貌とキャラクターでも広く知られる氏の写真は、実のところちゃんと見たことがありませんでした。せいぜい、アート系の本屋で写真集を何回か手にとったことがある程度です。

それが、そのタイトルひとつで見る気になってしまいました。往生、という言葉に惹かれたのです。死とは極楽へ往き新たな生を受けること、というのが仏教起源のその言葉の大意ですが、今生にあっては死に他なりません。死をみとってきた、死を見据えた男の写真とはいかなるものなのか、あらためて興味を覚え、帰省のついでに行ってきました。


写真家としてのデビューから、つい昨年の作品まで、奥様や愛猫の生死を写した「私写真」、あらゆる事象を肯定しきった(と言うか、写真は肯定せざるを得ないのですが)猥雑も静謐も等価となる写真、単なるスナップにすぎないもの、限りなく日記に近い写真と、実に様々な写真が展示されていました。

絵画の美術展と違って点数が多いため、一枚一枚の出来不出来を問うのではなく、選んだ写真によってどう全体像や連続性を想起させるか(あるいは、そうした全体性や連続性を破壊するか)、そこが肝要なのだろうと思いました。そして、わたしがその全体に連続して感じたのは、言いようのない「哀しみ」でした。


写真に写されたものはすべて、いずれ物理的に崩壊します。いつか死を迎えるものを、画像としてかりそめの永遠の相に残すこと。「在りし日の姿」なんて言い方がありますが、写真はかつての生を蘇らせる契機であると同時に、未来に待ち受ける死をも含めて、生を切り取る行為でもあるのです。

写真の怖さは、「すでに死んだ/いつか死ぬ」の境界をぼやけたものとするところにあります。わたしには、写されたひとやねこやものや建物がまだ健在なのかどうか、わからない。すると、笑顔で写るひとたちが、すでに亡き者にも思えてきます。そして、いずれにせよ「その時」は必ず来る…。

おそらく、彼は写真を撮りながら、自分が写したすべてはいずれ死に至るのだと、写真とは死の予告なのだと、しかしそれ以前に、まったき現在の「悦ばしき生」を切り取る行為であるのだと、何もかも自覚していたのでしょう。(と言うより、そうした自覚がない限り写真家であることはできないでしょう) その肯定性はユーモアであり、リアリズムであり、また彼自身の生のリズムでもあったのではないか。そう感じました。



彼の写真はとてもエモーショナルです。それ(だけ)が人生だと言わんばかりに。でも、決して大声ではなく、むしろ小声ですらある、そんな写真たち。生きることと撮ることをイコールとした喜びと哀しみが伝わってくる、写真たち。しかし、この喜びは、あまりに哀しみに似ている…。生と死が反転しつづける写真の時空にあっては、喜びも哀しみも反転しつづけるのでしょうか。だとしたら、どうしてわたしは哀しみばかりを感じたのだろう。

いや、それは自問するまでもなく、わかっていることでした。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



図らずも、「喜びと哀しみ」に関する文章となっていた。夏だからというわけでも、帰郷していたからというわけでもない。記憶の相とは、思うに生死や喜怒哀楽が変転をつづける場の謂いであろう。いまはただ、このことを書きつけておきたかったのだ。喜びがいずれ哀しみとなろうとも、それを求めなければならないのだと。それは「愛」という言葉が意味するところと違わないのだと。

「愛ノ旅」とはよく言ったもので、それが「人生」に他ならないことは、誰の目にも明白だろう。
ならば、わたしが求める喜びとは何だろうか。これもまた、自問するまでもないことだった。
わたしは喜びを知っている。だから、哀しみばかりを感じたのだ。

それは、終わりの先取りなのかもしれない。だから、反転させなければならない。
いま、わたしに必要なのは、そのような反転なのだった。



レコードによせて



以下の文章は、2010年8月20日21時半にMySpaceに投稿されたものの再掲である。

前ブログに引きつづいて書かれたこのブログは、書いた当人にとっても予定外の副産物だった。
いや、前半は予定通りだったはずだ。後半、話は変わっていった。それを止める気にはならなかった。
何か、思うところがあったのだろう。それでも、性急にならないよう、気をつけて書かれてはいる。
改行その他、表記以外は文章に手を入れていない。当時のままだ。

これを書いた当時は29だった、というのが、わたしを妙に不安にさせる。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


前回のロバータのレコードは、父のものである。
20年近く前の引っ越しでほとんど捨ててしまったが、
20枚くらい、捨てるに忍びなかった「生き残り」の一枚。
すでにプレイヤーは壊れていて、聴けないというのに。

山積みにされたレコードの山がふたつ、いやみっつはあったろうか。
たぶん、100枚~150枚、といったところだったのだろう。
とくに熱心な音楽ファンというわけでもなかったようだけど、
それにしてはそこそこの枚数だったと思う。
あの世代としては、普通なのかもしれないが。


部屋にはTHE BEATLES『Let It Be』のアルバムカバーのポスターが貼ってあり、
幼いわたしが恐がって泣くため、ポール、ジョン、リンゴの順で切り取られ、
最後に残ったジョージもいつしかはがされていたのだった。
恐かったのは、虚ろな目をしたジョン・レノンだけだったのだけど。
その後、別のポスターが貼られた。レノンだった。それは恐くなかった。
いや、この順番は逆かもしれない。しかし、それはどうでもいいことだ。


残されたレコードは、大体こんなラインナップだ。

THE BEATLESの『サージェント・ペパー~』と『アビー・ロード』、
レノンの『ジョンの魂』と『ヌートピア宣言』、ジョージの『33』、
デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』と『ヤング・アメリカン』、
エリック・クラプトンの『ノー・リーズン』、
CACTUSの『Son Of Cactus』、
BLOOD, SWEAT & TEARSの1st、
WEST, BRUCE & LAINGの1st、
キャロル・キングの『ミュージック』、
前述のロバータ、
スティーヴィー・ワンダーの『ファースト・フィナーレ』、
『ゴッド・ファーザー』のサントラ、
コンピレーション盤、などなど。
ほとんどが70年代前半の作品で、その頃の父は10代後半~20代前半だった。

ブリティッシュ・ロック、アメリカン・ロック、ポップス、R&B、サントラ、と雑多。
でも、これが70年代の聴きかただったのだし、このほうが健全だと思う。

明らかにいちばん痛んでいるのが、ボウイのジギー・スターダストだ。この辺り、血は争えない。
ロック史上最高の一枚を3枚選べ、と言われたら、わたしは真っ先にジギーを挙げるだろうから。
そうゆうことだ。


コンピレーション盤がちょっとおもしろいので、紹介しよう。
テイチクのUnion Record、というレーベル(?)から出ていたもの。1973年リリースらしい。
『greatest hit POPS complete album』、邦題を『グレイテスト・ヒット・ポップス大全集』という。



ジャケやインナーの女性が誰だか、不明。モノクロのインナーは、明らかに60年代テイストである。

曲目も、メモしてきた。カッコ内は邦題。
その方が感じが出る気がしたので、アーティストはカナ表記としてみた。

Disc-1

Side-A
1. The Music Played(夕映えのふたり) ウド・ユルゲンス
2. My World ビージーズ
3. Black Dog レッド・ツェッペリン
4. Morning Has Broken(雨にぬれた朝) キャット・スティーブンス
5. La Vie, La Vie(美しき世界) ミッシェル・デルペッシュ
6. American Pie ドン・マクリーン
7. I'd Like To Teach The World To Sing(愛するハーモニー) ニュー・シーカーズ

Side-B
1. An Old Fashioned Love Song スリー・ドッグ・ナイト
2. Theme From SHAFT(「黒いジャガー」のテーマ) アイザック・ヘイズ作曲
3. Brand New Key(心の扉を開けよう) メラニー・サフカ
4. Love ザ・レターメン
5. She's My Kind Of Girl(木枯らしの少女) ヨルンとベニー
6. Questions 67/68 シカゴ
7. Mamy Blue ユベール・ジロー作曲 ポップス・トップス

Disc-2

Side-A
1. Diamonds Are Forever(ダイアモンドは永遠に) シャーリー・バッシー ジョン・バリー作曲
2. Gypsys, Jramps & Jhieves(悲しきジプシー) シェール
3. Pour Un Fl(青春に乾杯) ミッシェル・デルピッシュ
4. Imagine ジョン・レノン
5. Everybody's Everything(新しき世界) サンタナ
6. Sweet Caroline ニール・ダイアモンド
7. Superstar カーペンターズ

Side-B
1. Sunrise, Sunset(「屋根の上のバイオリン弾き」より) ジェリー・ボック作曲
2. Till(愛の誓い) トム・ジョーンズ(トニー・ベネット←ジョルジュ・ビラー&ピエール・ブイソン)
3. Un Tour L'Amour(ただ愛に生きるだけ) マルティーヌ・クレマンソー アンドレ・ポップ作曲
4. America, America カーチャ・エプシュタイン ジョルジオ・モロダー作曲
5. I'll Follow The Sun(夜明けの太陽) ショッキング・ブルー
6. Tour, Tour Pour Ma Cherie(シェリーに口づけ) ミッシェル・ポルナレフ
7. Music Play(別れの朝) ウド・ユルゲンス

始まりと終わりに様式美を感じずにはいられない。


やはり、なんでもありの様相を呈していて、おもしろい。
それでいて、ジャンルの壁を感じさせない共通分母があるようにも思う。
60年代の残滓ではあるのだけど、ヒューマニスティックなあたたかさや、
パーソナル(個人的)であると同時に、ユニバーサル(普遍的)な表現など。

音楽産業が巨大化する前の大らかさ、いや、もっと言ってしまえば、
「音楽を聴く楽しさ」という、当たり前のことをこのアルバムに教えられた気がした。
一方で、あまりにもつまらない聴きかたをしているのでは、という危惧をも感じた。

あらかじめ奪われたノスタルジーではあるが、もうこの地点に戻ることはないのだ、
という乾いた諦念を追いやるような、豊かな音楽シーンはもう望めないのだろう。
なんと、あっという間に遠いところまで来てしまったのだろう・・・。


ビジネス、ファッション、アクセサリー、帰属カテゴリ、コミュニケーション・ツールとしての、音楽。

それは、必然ではあっただろう。残念でもある。もちろん、喜びもあるのだろうが。
そして、そんな現在を懐かしむ時代もまた、いずれ来るだろう。さらに世界は解体されるだろう。




ところで、父が今のわたしと同じ年だったとき、わたしはこんなもんだった。



いま、わたしには妻もいなければ、こんな小さなこどももいない。
当然だ。それを「当然」とするような、生きかたをしてきたのだから。

すっかりボケてしまった祖母も、当時まだ50代半ば、いまの両親より若い。

その頃は、子育てで忙しくてほとんど何も聴かず、見ず、だったらしい。
(それでも、THE POLICEの"Every Breath You Take"といったヒット曲は好きだったようだが)

いま、子育てをしている小中高といっしょだった旧友も、そうらしい。
たまにCDを聴いても、娘にストップボタンを押されるのだとか。

その友人の娘は、わたしの28回目の誕生日に生まれた。
父が27歳を迎えた十日後に、わたしは生まれた。

わたしは27歳を迎えたとき、20歳年下のこどもらに「お父さん/お母さんよりわかーい!」と言われた。

いま、その子たちは4年生の夏休みを過ごしている。
わたしは、自分の4年生の夏休みをよく覚えている。


20年経ったが、そのうち半分は捨てたも同然と思わなくもない。

20年前に、父はレコードを選び、大半を捨てた。
聴けもしないのに、少しだけ手元に残して。


そんなことばかり、最近は考えている。

そんなこと、とは?

それは、ひとが生きた時間。ひとが生きる時間。歴史。生活。記憶。忘却。夢。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



このブログを投稿してから、ちょうど4年が過ぎた。

ここで4年生と書かれていたこどもたちは、もう中学2年生になった。
わたしが中2だったときから、20年の月日が流れたわけだ。

すっかりボケてしまった、と書いた祖母は、もういない。2013年1月27日に亡くなった。
とても綺麗な顔をしていたことを、いまは思い出す。


この4年間を振り返ると、ようやく生きつないだ4年間であったと思う。
生かしてくれたすべてのひと、もの、ことには、感謝の念しかない。

一方で、恐れてもいる。この困難な4年半を乗り越えさせてくれたすべてとの、別れを。

そんなことばかり、最近は考えている。


Roberta Flack / Killing Me Softly (1973)



以下の文章は、2010年8月20日19時頃、MySpaceに投稿したものの再掲である。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


ロバータ・フラック(Roberta Flack: 1937-)の"killing Me Softly With His Song"を、
聴いたことのないひとは少ないだろう。




ドン・マクリーンにインスパイアされたロリ・リーバーマンが詩を書き、
それを元にノーマン・ギベルが作詞、チャールズ・フォックスが作曲、
1972年8月にロリが歌い、シングルがリリースされるも、ヒットせず。

ロバータが偶然、飛行機のBGMとして流れていたこの曲をいたく気に入って版元を特定、
彼女のバージョンが制作されるにいたり、その後はビルボード1位、グラミー賞3部門受賞、
日本でも「やさしく歌って」の名邦題で知られ、ネスカフェCM曲として長年愛されてきた。


それまでの「黒人シンガー」と言えば、感情的かつ躍動感のある野性的な歌唱、が主流だった。
いや、たとえそうではなかったとしても、そのような「イメージ」のもと、認知されていた。

ロバータはそのような「野性味溢れる」黒人シンガーといった紋切型のイメージとは対極の、
知的で上品で洗練された都会的なシンガーとしてデビューし、新たな黒人歌手像を打ちたてた。

もしくは、彼女やダニー・ハサウェイなど、「ニュー・ソウル」と呼ばれた新世代の登場によって、
ポップ・ミュージックにおける黒人と白人の差異、壁が解消されたのだ、と言うべきかもしれない。


彼女にとって3rd Albumとなる『Killing Me Softly』(1973)は、
名盤である以上に音楽が好きならば一度は聴かねばならず、
そして何も感じなかったならば一生音楽に近づく必要はない、
と断言したくなるような、「音楽という愛」に満ちた、ある意味「究極の」アルバムである。

とはいえ、そのような名作の常で、いっさいの大仰さや押しつけがましさとは無縁の、
日常的な息遣い、ちょっとしたスケッチ、先週書いた日記、とでもいった雰囲気で、
あちらのほうからわたしたちに寄り添ってくれるような、そういったアルバムである。


ジャニス・イアン作の感動的な"Jesse"
クラシカルな趣きもある、ジャジーな"I'm The Girl"
軽やかで映画的な印象の強い"Conversation Love"や、
遠足やピクニックを楽しみにするこどものように屈託のない"When You Smile"など、
素晴らしい曲と歌唱ばかりの傑作だ。死ぬまでに一度は聴いてほしい。


ところでこのジャケット、何かおかしいと思わないだろうか。


ピアノが合成っぽくて不自然?
そう、それもある。サイズもアングルもおかしい。
さらに言えば、ライティングの当たり具合もおかしいし、ピアノの色も同様。

ロバータがマイクを持っていることに気づいただろうか?
ふつう、弾き語りならマイクスタンドがあるため、マイクを持つ必要はない。

これらの疑問は、オリジナルのレコードを見れば氷解する。
実は、そもそもこうゆう作りをしているのだ。


この通り、そもそもロバータの顔にピアノがかかっている。開くと、こうなる。



マイクを持って歌うロバータが出て来る、という仕掛け。
ちなみに、レコードはここにこうゆう風に入っている。



レコードがいまだに「アート」として一部に認知されているのも頷ける、シャレた作りである。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


マイスペ時代は、それこそ「日記」のような気軽さでブログを書いていたことがわかる短い文章だ。
もっとも、これは気軽に書けた最後のマイスペブログでもあるのだけど。


昨年だったか、ロバータは来日公演を行った。
残念ながら観に行くことはできなかったが、当然のように好評を博したと聞く。

多くのひとは、彼女の歌/音楽になんのわだかまりもなく「懐メロ」という言葉を使うかもしれない。
もちろん、それは彼らが彼らなりの人生を歩んできた証左であり、
その言葉は好意的なニュアンスをもって発語されてもいるだろう。

実に、40年以上前の曲なのだ。
往時を振り返る当人にあっては、追憶の遠近に驚きもするであろう時間の幅だ。


しかし、だからこそ、わたしは「懐かしい」という言葉は使いたくはない。
それは長い間、忘れられていた何がしかがあったことを意味するからだ。

当然のことではある。なにもかもを抱え、記憶したまま生きることは不可能だからだ。
それでも、それだからこそ、わたしは好きな音楽を古くしたくはない。


音楽を繰り返し聴くことは、初めて聴いたときの自分を保存しながら、
いま聴いている音楽を自己のなかで更新することでもある。

聴き返すたびにわたしはこどもに、中高生に、学生に、「その頃」のわたしになる。
同時に、ふえつづける知見は、その音楽に新たな発見を見出しもするだろう。
磨滅した感性と型に嵌った認識が、その音楽を矮小化することもあるだろう。

それでいて、どこかで「その頃」のわたしは、初めてその音楽に触れたときの感動の核は、保たれる。
一度でもこころ奪われたものを、たとえそれが一時的なものであったとしても、忘れたくはない。

だからわたしは、好きな音楽を「懐かしい」とは決して言わない。
これは、自分の好きな音楽を探り当てた「その頃」のわたしへの、仁義のようなものである。


それがどうした、ということばかり書き足してしまった。
蛇足ではあったけど、追記まで。